幸せとは何でしょう?お金をたくさん持っていること?高学歴を手に入れること?偉くなること?何でも好き勝手できること?いいえ、イエス・キリストは次のように教えました。
ひかえめですなおな人が、真の自由を得ること。
悲しみ悔やむ人が、なぐさめられること。
おだやかな人が、美しいきずなを得ること。
神の光を求める人が、光に包まれること。
いつくしみ深く、ゆるせる人が、いつくしみとゆるしを受け取ること。
神に心を開く人が、神に出会うこと。
平和をつくる人が、一番すばらしいと認められること。
愛を行う人が、正しいと認められること。
こうしたことが実現することが本当の幸せであり、神の国なのです。
ひかえめですなおな人が、真の自由を得ること。
謙虚さとつつましさ
この世界では、地位や財産を持つことが幸せの象徴とされることがよくあります。多くの人が社会的な成功や物質的な豊かさを求め、そのために自分を大きく見せたり、高いプライドを守ろうとします。しかし、イエス・キリストはまったく違う生き方を示しました。イエスによれば、本当の幸せは、この世の富や名声を追い求めることではなく、謙虚さと慎ましさを持って生きることにあります。
正直に生きられない人
自分を強そうに見せたり、完璧な人間であるかのように振る舞う時、人間は、自分が本当に必要としていること、自分自身の弱さや愚かさから目を背けてしまいます。それは自分に正直な態度ではありません。見るべきものを見つめ、向かい合うべきものに向かい合っていないからです。自分に正直に生きられない人は、他者に対しても正直に生きることができません。
自分を大きく見せる必要はない
ですから、いつも自分を大きく見せようとして背伸びをし、高いプライドに固執し、両手で自分の財産を握りしめることばかりに必死になっている人は、目の前で倒れ、助けを必要としている人に寄り添い、ひざをかがめて両手を開き、助けを差し伸べることができません。イエスは、そのような生き方を「幸せ」とは呼びません。
プライドからの解放
イエスが教える幸せとは、こうした縛りから解放されることです。プライドや物欲から自由になり、自分を低くして他者を受け入れる広い心を持つことです。自分の弱さや限界を正直に認め、他者や神の助けを必要とする姿勢を持つことです。自己中心的な思いから離れ、心を柔らかく開いている人は、助けを必要としている人を見て、自然に手を差し伸べることができます。
愛する自由を生きる
これこそが幸せです。人間は自分の小ささを知ることで、神や他の人々とのつながりを深く感じることができます。他者を受け入れ、時間や心を分かち合うことで、人ははじめて内なる豊かさを実感できます。言い換えるならば、人を真に愛することができるようになります。つまり、愛する自由を生きる人こそが、本当に幸せな人なのです。
悲しみ悔やむ人が、なぐさめられること。
愛とかなしみ
悲しむことは、一般的には良いこととは思われていません。もちろん、わざわざつらい経験を選び、悲しみに浸る必要はありません(悲恋ものの映画などを好んで観るのは別として)。しかし、時には悲しむ可能性がある選択をすることがあります。それは「人を大切に思うこと」、つまり愛することです。
別れるのは、一緒にいたから
たとえば、パートナーと共に人生を歩むことを選ぶと、楽しい時間もたくさんありますが、必ず悲しい瞬間も訪れます。一緒に過ごせない寂しさ、相手が病気やけがで苦しむ姿を見るつらさ、そしていつか訪れる相手との別れ――それが死によるものか、避けられない事情によるものかは分かりませんが、こうした悲しみは避けられない現実です。
なぐさめのある悲しみ
もしパートナーを持たない人生を選べば、こうした悲しみを経験せずに済むでしょう。しかし、それでも誰かを大切に思う人生を選ぶことは、すばらしいことです。悲しみを恐れていては、心の温かいつながりを育むことはできません。イエス・キリストは、こうした悲しみには必ずなぐさめがあると教えています。そして誰かを大切に思い、共に生きることを選ぶことこそが、人生の幸せだと示しているのです。
心からくやむ
もう一つ、わたしたちが自ら選ぶ悲しみがあります。それは自分の行動を振り返り、心から悔やむことです。「あの時、あんなことを言わなければよかった」「あんなことをしてしまったのは間違いだった」と反省することです。自分の本当の姿を直視し、間違った行いを「悪かった」と認めるのは、悲しみを伴う辛い作業です。そのため多くの人はこうした悲しみを避ける道を選びます。つまり、自分の行いや心のあり方を正面から見つめずに、自分を正当化したり言い訳したりするのです。
ゆるされるかなしみ
しかしイエスは「過ちを振り返る悲しみを選びなさい」と教えます。この悲しみは決して孤独な苦しみではありません。自分の行いを悔やむとき、イエスがそばにいてくれます。後悔する心に寄り添い、なぐさめてくれます。そして本当の自分を見つめたわたしたちを、イエスは必ず受け入れ、ゆるしてくれます。自分の過ちを直視し、心から反省し、それを改めようとする人は、新しい人生を始めることができるのです。それが真の自由であり、心からの幸せに通じる道なのです。
おだやかな人が、美しいきずなを得ること。
愛にそむく行動
怒りやねたみ、乱暴なふるまいが良くないことであると感じている人は少なくないでしょう。しかし現実には、こうした感情にとらわれて行動してしまう人はたくさんいます。それは大声で怒りを爆発させるようなわかりやすい形だけではありません。静かに恨みを抱え込み、影で悪口を言ったり、こっそり他人を陥れたり、困っている人をわざと無視したりすることもよく見られる行動です。
橋を壊し、壁を作るもの
こうした行いは人と人との結びつきを壊してしまいます。それは橋を壊し、壁を作るようなものです。結果として残るのは荒れ果てた地――そこには人の絆も、思いやりもありません。
ほんとうにおだやかな人
一方で、真におだやかな人は違います。人前ではもちろん、見ていないところでも決して怒りやねたみを抱えたり、人を恨んだりしません。また人の不幸を願ったり、誰かを傷つけるような行動を取ることもありません。おだやかな人はどんな時でも相手を思いやり、優しさを注ぎ、人と人とを結びつけようとします。そして互いに助け合い、支え合う社会を目指します。
あたたかいきずなの世界
その結果、おだやかな人が作り出すのは、美しい花園のような世界です。異なるいのちが太陽の光を受け、それぞれの色鮮やかな花を咲かせ、調和の中で輝くのです。おだやかな人が手に入れるのは、人と人との間に築かれる深く豊かな絆です。それこそが本当の幸せと呼べるものなのです。
神の光を求める人が、光に包まれること。
ほんとうの生き方を求める
たとえ今の状況にあきらめを感じている人でも、また自分を抑えて周囲に合わせることが当たり前になってしまった人でも、「本当の自分とは何だろう」「真実に生きるとはどういうことだろう」「正しいこと、善いこととは何だろう」と心のどこかで疑問を感じ、そうしたものを求める思いがきっとあるはずです。
かわきは満たされる
たとえどんなに暗闇の中にいると感じる時でも、もしその「光」に少しでも触れることができたら、それはどれほどすばらしいことでしょう。こうした渇きや求める心は、必ず満たされると信じてください。なぜなら神は真理を求める心を決して見捨てないからです。そもそも永遠の真理を求める思いは、聖霊がわたしたちの魂に働きかけた結果なのです。あなたが天を仰ぎ、神に心を向けているその瞬間、それ自体がすでに神があなたに応えてくれている証拠なのです。
闇を照らす光、キリスト
確かにこの世界で生きていると、正しいことや善いことがごくわずかに思えたり、また強大な悪の力に圧倒されてしまうように感じることがあるかもしれません。それでも、この暗闇を照らす光は確かに存在します。その光こそが、イエス・キリストの教えであり、イエス・キリストご自身です。この世界の不完全さやゆがみにため息をつくのではなく、神が与えてくださる光に包まれることを信じる――それこそが、わたしたちの魂が見いだす本当の幸せなのです。
いつくしみ深く、ゆるせる人が、いつくしみとゆるしを受け取ること。
受け入れられたい
わたしたちは誰かにやさしくされたい、受け入れてほしい、尊重されたいと願っています。失敗した時にはゆるしてほしいと思います。それがかなえられないと、イライラしたり、時には怒りや失望を抱くことがあります。ただ、よく考えてみてください。そのように誰かに認められたり、ゆるされたいと思うのは、あなただけではありません。この世界に生きるすべての人が、同じように心からそれを求めているのです。
なぜあなたは受け入れられた?
もしあなたが誰かに認められたり、ゆるしてもらえたりしたら、それはすばらしいことです。でもそのとき「自分は相手に同じように接しているだろうか?」と考えてみてください。やさしくしてもらったらやさしさを返し、受け入れてもらったら同じように相手を受け入れる。それは自然なことかもしれません。しかし相手が先にそうしてくれた理由を考えてみたことはありますか?相手は、あなたが何もしていなくても、最初にやさしく接し、受け入れ、尊重し、ゆるしてくれたのです。
まずわたしが受け入れる
ここにイエス・キリストの教えの核心があります。イエスは「あなたが率先して人を認め、人をゆるし、人にやさしくしなさい」と教えました。相手がどうであろうと、まず自分から行動を起こすようにと求めています。「どうしてわたしが最初にそんなことをしなければいけないの?」と思う人がいるかもしれません。「もしそれで自分が認められなかったら損をするだけでは?」と心配するかもしれません。
損か得か、ではなく
しかし、イエスの教えはそのような損得勘定を超えています。イエスは「神があなたを深くいつくしんでくださっているのだから、あなたもほかの人に対していつくしみ深く接しなさい」「神はすでにあなたをゆるしてくださっているのだから、あなたもほかの人をゆるしなさい」と教えています。率先してあなたを認め、ゆるしてくれた人は、神のいつくしみとゆるしをすでに受け入れている人かもしれません。
いつくしみとゆるしを分け合う幸せ
本当に幸せな人は、「それは自分にとって得か損か」などということをいちいち考えません。すでに自分がよくしてもらっているのだから、それをほかの人にも分け与えたいと願って行動します。いつくしみ深く、ゆるせる人が、やはりいつくしみとゆるしを受け取っていること。その分かち合いができることが、真の幸福なのです。
神に心を開く人が、神に出会うこと。
うたがいの世界
わたしたちは日々、外の世界に対して身構えて生きています。たとえば、知らない番号からの電話に出るのをためらったり、あやしいアルバイト募集を見て「何か裏があるかもしれない」と警戒するのは、ごく自然な自己防衛です。しかし、こうした慎重さが行き過ぎると、何もかも疑いの目で見る習慣が身についてしまうことがあります。たとえ誰かが親切にしてくれても、「別の理由があるのではないか」と勘ぐり、「人が無償で与えるなんてありえない」とさえ思い込むことがあるかもしれません。
闇の中で
このように疑いの気持ちや自分の利益を優先する考え方が心を支配してしまうと、やさしさやいつくしみ、誠実さ、素直さといった大切な感情が心の中から居場所を失います。心はまるで灰色の厚い雲に覆われた空のようになり、光が差し込む隙間を見いだせなくなるのです。
この社会はそんなもの?
「それでも仕方がない。そんなふうに生きなければ、この社会では生き残れない」と考える人もいるかもしれません。しかし、わたしたちは本当にそのために生きているのでしょうか?常に人を疑い、勘ぐり、自分の利益だけを追求することが、人生の本当の目的なのでしょうか?
人生のほんとうの目的
イエス・キリストはそうではないと言います。わたしたちの人生の本当の目的は、疑いや利己心の雲に覆われていない、まっすぐで透明な心で生きることです。そのような心を持つことで、わたしたちは目の前の人を受け入れ、大切にすることができます。そしてそれは自分自身を大切にすることにもつながります。目の前の人を大切にできない人は、本当の意味で自分自身を大切にすることもできないからです。
神の光を受けとめる
神はわたしたちの心に、光を絶えず注ぎ続けています。その光は、わたしたちに向けられた神の限りないいつくしみとゆるしです。心を開いてその光を受け入れると、わたしたちは目の前にいる人々をありのまま受け止め、思いやりを持って接することができます。そして人と人との間に、思いやりに満ちたあたたかいきずなを結ぶことができるでしょう。
神との出会い
人とのあいだにあたたかいきずなを結んで生きることを望む人は、神と深いきずなで結ばれることができます。神の光に照らされ、神の存在を感じ、神があなたに注ぐいつくしみを日々の生活の中で見いだすことができるのです。これこそが「神に出会う」ということです。そしてそれは人生において得られる最大の祝福であり、真の幸せなのです。
平和をつくる人が、一番すばらしいと認められること。
平和と平安
キリスト教では、「平和」とは単に戦争がない状態だけを指すのではありません。心の中が穏やかであること、目の前の人や周囲の人々と和やかな関係を築くこと、そして集団や国どうしが争わず協力し合うこと、これらすべてを「平和」または「平安」と呼びます。これらの状態は互いに深くつながり、切り離すことができません。
世界の平和は、心の平和から
キリスト者が平和を祈るとき、それは地球のどこかで起きている戦争の終結を願うだけでなく、わたしたちの日常生活や人間関係、そして一人ひとりの心の中にも平和が訪れるように求めています。日々の暮らしの中で、争いや憎しみのない穏やかな環境を目指すこともまた、平和への祈りの一部なのです。
争いは、わたしの中に
「そんなのは当然のことではないですか?」と思う人がいるかもしれません。でも、みなさんはそれを実現できていますか?たとえば、戦争をしていない国に住んでいても、家族同士が毎日いがみ合っていたり、友人や同僚との関係が険悪だったり、心の中で他人を見下し、憎む気持ちを抱えているとしたら、それは本当の平和といえるでしょうか?平和とは、外見だけの静けさではなく、人と人との間にある温かなつながりや思いやり、そしてあなた自身の心のおだやさかによって成り立つものなのです。
本当の平和はどこに?
こうした中で、争いをしずめ、橋を架けようとする人は、ときに孤立したり攻撃されたりするかもしれません。たとえばそこにいない人の悪口で盛り上がっている時に、「人の悪口を言うのはやめよう、あの人とも仲良くしよう」と言い出す人がいたら、むしろヒンシュクを買うのではないですか?たとえ意見の合わない人がいても、何とか理解してみようと考える人がむしろ非難されるような社会は、本当に「平和」と言えますか?
平和の教え
しかしイエス・キリストは、どんな時でも橋を架けようとする人々こそが「神の子」と呼ばれるにふさわしいと教えました。真の平和を求めるとは、ただ自分一人が静かに過ごすことではなく、不和の中に調和をもたらし、分裂の中にきずなを作り出すことを意味します。
平和をつくる生き方
わたしたち一人ひとりが、相手が誰であろうと目の前の人に優しく接し、助け合い、争いではなく共に歩むことを選ぶとき、その行動は平和の種となります。そしてその種がやがて花開くとき、わたしたちの社会はきっと変わっていくでしょう。そうした平和の種をまき、育てる人が一番すばらしいと認められる社会こそが、真に幸福な社会なのです。
愛を行う人が、正しいと認められること。
架け橋として生きる
目の前の人を大切にし、どんな人にもやさしく接し、思いやりを持って人と向き合い、すべての人をつなぐ架け橋のように生きること。それがキリスト教が教える生き方です。
できるのに、できない
この教えは、単なる理想論ではありません。わたしたちは心から願えば、そのように生きることができます。それでも、できない理由がいくつかあります。
弱さと助け
まず、わたしたちはすでに、こうした生き方をしたくてもできないような弱さを抱えた存在であることです。しかし、神はそんなわたしたちを決して見捨てません。わたしたちが苦しいとき、神はそっと手を差し伸べ、支えてくださいます。
愛をさまたげるもの
もう一つの理由は、世の中がこうした生き方を歓迎しない場合があるからです。たとえば、いじめられている人を助けようとすると、自分もいじめられることがあります。不正を正そうとすると、不正を働く人から逆恨みされることもあります。困っている人に手を差し伸べれば、「自分だけ良い格好をするな」と嫉妬されることもあるでしょう。周囲の人々が、自分の心の中にある弱さや欠点を映し出されることを恐れ、やさしさや誠実さを示す人を攻撃することがあるのです。
愛を迷惑に思う人々
また、自分の利益や名誉を最優先に考え、他人をおとしめたり、陰口をたたいたりして、自分を高めようとする人たちにとって、無償で他者に尽くす人の存在は迷惑で厄介に感じられるかもしれません。そのような人たちは、自分の心の貧しさが光にさらされるのを避けるために、善い行いでこの世を照らす人を妨害しようとすることがあります。
神はいつも一緒にいる
このように、この世で他者を大切にし、やさしさと思いやりを持って生きることは、ときに大きな苦労を伴います。「もうやめたい」と思う瞬間が訪れるかもしれません。それでも、こうした生き方を選ぶ人から奪うことのできないものがあります。それは、神がいつも共にいてくださるという確信です。
愛をあきらめない
人を助けようとする行為の中で、わたしたちは神と出会います。その出会いは、お金や地位、名誉では決して得られない、かけがえのない体験です。たとえ批判や妨害を受けることがあっても、真に善い生き方を知っている人は、決してあきらめません。神のやさしさとぬくもりが、すべてに勝るものであることを知っているからです。
神はあなたを見捨てない
この世の移ろいやすい価値観に惑わされず、イエス・キリストの教えに従って生きることは、決して簡単な道ではありません。それでも、神はどんな時でもあなたを見守り、支えてくださいます。あなたが思いやりとやさしさを持って目の前の人を大切にし続ける限り、神があなたを離れることは決してありません。この神との深いつながりこそが、どんなものにも代えられない、最高の幸せなのです。
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