あなは神にとってかけがえのないたった一人の存在。あなたにとっても神は唯一の、活き活きとした、愛情あふれる、忍耐強いやさしさといつくしみを注ぐ永遠の光です。
神はひとり
キリスト教では、神はたったひとりだけだと信じています。それは、この神がわたしたちを決して見捨てず、どんなときも愛してくれる存在だからです。もし神がたくさんいたら「この人は助けるけど、あの人はやめよう」と選ばれてしまうかもしれません。神の選択肢がほかにあるからです。でもキリスト教の神はひとりだけなので、すべての人を変わらず愛し、いつでも助けてくれます。だからこそわたしたちはこの神を信頼し、安心して生きることができるのです。
あなたも、神も、ひとりだけ
キリスト教では、神はひとりだけだと信じています。「え?カミサマがたくさんいたほうがいいんじゃないの?」と思うかもしれませんね。
でもキリスト教で「神はひとりだけ」と信じるのは、とても大事な理由があります。この神は、あなたの人生のすべてを助けてくれる、かけがえのないたったひとりの特別な存在だからです。そしてこの神は、あなたのことを「たったひとりの、かけがえのないとても大切な存在」として、どんなときも愛してくれます(もちろん、世界中のみんなのことも同じように愛しています)。
神を選べたほうがいい?
もし神がたくさんいて、「好きなカミサマを選んでね」と言われたらどうなるでしょう?好みのカミサマを選べるって都合がいいな、と思うかもしれません。でも、もしかすると、あなたがカミサマを選ぶように、カミサマのほうからも「この人は助けるけど、あの人はやめとこうかな」と選ばれるかもしれません。そして、あなたが本当に困って助けをお願いしても、「その願いごとはわたしの担当ではないから、ほかの神に頼んでみたら?」と言われるかもしれません。
あたを、まっすぐ見つめる神
でも、キリスト教の神はひとりだけです。だから神はいつでもあなたのことを見ていて、絶対に見捨てたりしません。他に神がいないので、逃げたり他の人に任せたりすることもありません。この神は、いつでもまっすぐにあなたを助け、愛してくれるのです。
ただひとりの神は、あなたのことをただひとりの存在として大切に思っています。ですからあなたも迷うことなく、この神のみを信頼すれば、それだけで充分なんです。
ひとりの神で、みんなひとつ
そしてこの神は、わたしたち全員の共通の神です。だから、国や言葉が違っても、みんながこの神のもとでつながることができます。戦争や争いが多い世界の中で、ひとりの神を信じることは「みんなでひとつになれる希望」を持つことでもあるんです。
どこにでもいる、ひとりの神
たったひとりの神は、どこにいても、どんな状況でも、あなたを見守っています。もし不安なことや悩みがあったら、この神に心を向けてみてください。「助けてください」「そばにいてください」とお願いするだけで大丈夫。神は必ずあなたに応えてくれますよ。
神は生きている
キリスト教の神は、遠く離れた存在ではなく、いつもわたしたちとともにいる神です。「神は生きている」とは、神が今もわたしたちに働きかけ、助け、励ましてくれるということです。困ったとき、悲しいとき、神は思いがけない方法で支えてくれます。この神の支えがあるからこそ、わたしたちは希望を持ち、生きる力を得るのです。
神は、ここにて助けてくれる
キリスト教の神とは、どこか遠くにいて、何だかよくわからない存在ではありません。あるいは、宗教施設の奥深くに引っ込んでいて、ただみんなに拝まれているだけの存在ではありません。キリスト教では「神は生きている」と表現します。これは、神が活き活きと、いつでもわたしたちに働きかけてくれる存在であるということを意味しています。
たとえばわたしたちが苦しかったり、困ったり、悲しかったりするとき、神は思いがけない方法でなぐさめてくれます。あなたが行動しようとするとき、人を愛する力、人を助ける力、人をはげます力を与えたりします。何よりも、見えない形で、いつもわたしたちのそばにいて「だいじょうぶだよ」「あなたはひとりぼっちじゃないよ」と応援し続けてくれています。
いっしょにいる神を信頼する
神を信頼するというのは、単に「神が存在する」ということに頭で同意することでもなければ、やみくもに「神は存在するはずだ」と思い込むことでもありません。今この瞬間に、神がリアルに活き活きとわたしに働きかけてくれていると確信することです。神がわたしたちをいつも見守っているというのは、監視カメラのように目立たないところから黙って見張っているという意味ではありません。あなたが何をしているかをきちんと把握しつつも、余計な手出しや口出しはせず、けれども困った時はすぐに手を差し伸べて、わたしたちの涙をぬぐい、「だいじょうぶだよ」「いっしょに歩いて行こう」と呼びかけてくれるということです。
神は「生きている」
このように神が活き活きと働きかけてくれるので、わたしたちも生きる力がわいてきます。それは生きている神のいのちをいただくことです。神が生きて働きかけてくれるからこそ、わたしたちは希望を持つことができます。キリスト教の神は、どこか遠くで手をかざして、わたしたちをじっと見ているだけの神ではありません。いつもわたしたちとともに歩んでくれる、すぐそばにいる神です。その神に心を向けてみると、きっとあなたも神の「生きている」働きを感じられるようになるでしょう。
神は愛である
キリスト教では、「神を信じること」と「目の前の人を大切にすること」は切り離せません。神の愛に気づくと、「わたしも人を大切にしたい」と自然に思えるようになります。誰かに「あなたは大切な人だよ」と言われるとうれしくなるのと同じように、神がわたしたちを愛していることを感じると、人にもやさしくなれるのです。だから、神を信じることと人を愛することは一つのもの。これこそが、「神は愛である」ということなのです!
神を信じることは、人を愛すること
キリスト教では、「神を信じること」と「目の前にいる人を大事にすること」は切り離せません。たとえば、困っている人を見たら、「この人を助けてあげたい」と思って行動すること。誰かにひどいことをされても、「仕返しをするんじゃなくて、ゆるしてみよう」と思うこと。そして、友だちや家族だけでなく、まわりの人たちと感謝し合いながら仲良くすること。もちろんクリスチャンであってもそんなにうまくできないことも多いですが、目の前の人を大切にしよう、誰に対しても思いやりとやさしさをもって接しようといつも考えて行動しているクリスチャンはたくさんいます。
大切にされて、大切にできる
でも、どうしてそんなふうに生きられるの?と思うかもしれませんね。それは、神がわたしたち一人ひとりをとても大切に思ってくれていると信じているからです。「神がこんなにわたしのことを大切にしてくれているんだ」と気づくと、「わたしも、少しでもそんなふうに人を大切にしたい」と思うようになるんです。
たとえば、誰かに「あなたはとても大切な人だよ」と言われたら、うれしくて、ほかの人にもやさしくしたくなりますよね?それと同じように、神があなたを大切にしていることを感じると、人のことも大切にしたくなるんです。キリスト教では、神のことをこの「愛そのもの」と考えています。だから、神を知っている人は、自然と「もっと人を助けたい」「もっとやさしくなりたい」と思うようになるんです。
信じることと愛することはひとつ
つまりキリスト教では「神を信じること」と「人を愛すること」がいつもつながっています。両者はコインの裏表で、一つです。神がわたしを愛していることを感じると、私も人を愛することができるようになります。神はあふれる愛のみなもとなのです。これが「神は愛である」ということなんです!
神は母であり、父である
キリスト教の神は、母のようなやさしさと父のような力強さを持つ存在です。ヒナを守る鳥や、どんなときも子を思う親のように、神はわたしたちを決して見捨てません。しかし神はわたしたちを無理に従わせることはしません。強制したり罰で脅したりするのではなく、わたしたちが自由に神の愛に気づくのを待ち続けています。神の愛を信じるかどうかは、わたしたち自身にゆだねられているのです。
親のような愛情
神はわたしたちに、母のような、父のような愛情をそそぐ存在でもあります。(この場合、必ずしもあなた自身の母親や父親の姿を神に重ねる必要はありません。母や父という表現に抵抗を感じる人は「親」と言い換えてかまいません)
母のイメージ
ヒナをいつも自分の翼の下にかくまい、外敵から守ろうとするメス鳥がいます。ヒナは自分がどのような状況に置かれているのか、あるいはよくわかっていないかもしれませんが、メス鳥はいつでもヒナを安全に守ろうとします。
母親には、自分が妊娠・出産を経て生んだ子どもになみなみならぬ愛情を示す人がいます。たとえ何十年離れ離れになろうと、音信不通状態が長期間続こうと、子どもへの愛情は少しも変わらないという母親もいます。
母親の中には、子どもが何歳になろうと(たとえ40歳台、50歳台になろうと)、いつもギュッと抱きしめる思いで子どもに接する人がいます。子どもが涙を流していれば、子どもの目線に合わせてかがみ、涙をぬぐうことをいとわない母親がいます。
いのちの源、限りないやさしさ
これらの母親のイメージは、少し古い時代の文学的表現と言われるかもしれません。現代ならば父親あるいは「親」と言い換えても成立するでしょう。ただキリスト教はさまざまな時代の中で、このような象徴的な母親のイメージを神に見いだしてきました。いのちを育むあたたかいやさしさ、限りない受容的な態度、自分が生んだいのちを決して忘れない愛情、それが「神は母である」と表現される意味です。
父のイメージ
また、もしかしたらあなたは「父親」という言葉にあまりよいイメージを持っていないかもしれません。確かに現代では「父親」にまつわる事件として報道されるものには、目を背けたくなるようなものがたくさんあります。
一方で、旧来の父親の役割とされるものにはさまざまなものがあります。産みの母親ほど自分との関係を実感しにくい子どもに対して、それにもかかわらず全責任を持つこと。世間の、あるいは自然からの、嵐のような脅威から力強く子どもを守ること。社会や家族のルールを教え、子どもが自分の人生を生きるよう導くことなどです。こうしたことはもちろん生物学的な性別とはもはや関係ないものと理解されています。一方でキリスト教では、かつての文化を背景として、父親のこうした役割が神から人への導きや思いやりの中身と重ねられて表現されてきました。
忍耐と、強さと
親からこうした導きを充分に得られなかったと感じている人がいるかもしれません。しかし神は完全な母であり、父であるので、忍耐強さと力強さに基づいて、限りない導きと励ましと守りをあなたに与えてくれます。
神は決して、子どもたちを自分の意のままにあやつろうとしません。神はその力を、子どもたちを支配するために使おうとはしません。神がわたしたちに注ぐ愛情はあまりに深すぎるので、神はわたしたちの自由を制限しようとしないのです。たとえ何十年(いや、何百年、何千年!)かかろうとも、わたしたち人間が神の愛情に気づくまで、忍耐強く待ち続け、わたしたちを見守り続けます。
支配せず、自由を与える
神にしてみれば「私に服従せよ、さもなくば地獄に落とすぞ!」と脅す方が、よほど楽なはずです。しかし神はわたしたち一人ひとりを尊重しているので、条件を課してわたしたちを管理したりしないのです。神はわたしたちが無条件に神を愛するようになって欲しいと願っているので、わたしたちに無条件の自由をゆるしているのです。
自分の子どもに無条件の自由をゆるしている親がどれくらいいるでしょう?子どものためと口では言いながら、結局のところ子どもを支配的に管理してしまうことが多いのではないでしょうか。それが決していいことではないと心の中で思っていながら、高圧的に、時には脅迫的に子どもに接してしまい、あとで後悔する親がどれくらいいることでしょうか?
あなたを待ち続ける神
しかし神はわたしたちを力で支配しようとしません。優位性を利用して巧みに誘導しようともしません。ただただ深い愛情を注ぎ、わたしたちが自分から神へ振り向くのを待ち続け、そのあたたかい両腕で抱き止めたいと願っています。
「神がそんなふうにわたしのことを思っているなんで信じられない!そんなこと、どうやったらわかるんですか?」聖書には、神がどれほどわたしたちを大切に思っているかがくわしく書いてあります。何千年も前から、神はわたしたちへの愛情をことばにして、わたしたちに伝えてくれています。神はわたしたちに無制限の自由をゆるし、無条件の愛情を注いでくれている親であるということを信じるか信じないかは、わたしたち次第なのです。