神を心から信頼しなさい
イエス・キリストは「神を心から信頼しなさい」と教えました。神は、つねに私たちをいつくしみ、守ってくれます。この神を全面的に信頼することが最も大切であると説いています。
イエス・キリストが教えた中で最も大切なことのひとつは、「神を心から信頼し、尊び、大切にしなさい」ということです。この教えは、キリスト教の中心にありますが、初めて聞くと「どうして神を大切にしなければならないの?」と思う人もいるかもしれませんね。
神はすべてのものの創造者
まず、キリスト教で信じられている神は、この世界を作り、わたしたち一人ひとりを特別な存在として生かしている方です。たとえば、太陽が毎朝昇ること、雨が降ること、植物が育ち、動物や人間が生きていること――これらすべては、神がこの世界のすべてを無から創造し、調和と秩序を与えているからだと考えます。
神を大切にするなら、自分も大切にできる
この神の存在を認めるということは、この世界にあるものは自分も含めて偶然の産物ではなく、それぞれが意味と目的をもって今ここに存在しているということを認めることでもあります。神を認めて尊重することは、自分を認めて尊重することであり、目の前の人やそのほかの人々すべて、そしてこの世界を認めて尊重することでもあるのです。ですから神を大切にするということは、この世界や自分の存在そのものを大切にすることとも言えるでしょう。
助けを求め、孤独から脱出する
キリスト教では、神はひとりであり、永遠であり、何でもできると信じています。何でもできる神は、わたしたちの声に耳を傾け、わたしたちを助けることもできます。わたしたちは時々、不安になったり、孤独を感じたり、誰かに助けを求めたくなることがありますよね。神を認めるということは、自分には「神よ、助けてください!」と叫ぶ相手がいることを認めるということでもあります。それは、どんな夜にも必ず朝は来る、どんな涙も必ず拭ってもらえると信じることです。
わたしは、一人ではない
何でもできる神は、いつもわたしたちを見守ってくれます。この神を信頼するなら、あなたはきっと「わたしは決してひとりぼっちではない」と安心できるようになるでしょう。
また神を大切にするというのは「神を第一に考え、自分の生き方を神に向ける」ということでもあります。たとえば、わたしたちは日々いろいろな選択をしていますが、その中で「神が喜ぶことは何だろう?」と考えるようになると、自分勝手ではない行動を選べるようになります。わたしたちは自分の利益優先で考えたり行動したりしていると、同じように自分中心の人たちと衝突し、争いや憎しみの渦に巻き込まれます。しかし神中心の生き方を選ぶと、この渦から解放され、やさしさ、思いやり、信頼、感謝に基づいた人生を生きるられるようになります。
義務や支配ではなく、愛を受け入れる
神を大切にすることは、決して義務や重荷ではありません。また、怖い支配者に従うということでもありません。むしろ、永遠に変わらず、わたしたちを大切に思い続けてくれる方を心に迎え入れることです。その方がいつもわたしの心の中にいると信じることで、わたしたちはどんな時でもひとりぼっちではないと確信することができるのです。
目の前の人を大切にしなさい
イエスは「自分を大事にするのと同じように、目の前の人も大切にしなさい」と言いました。相手が知り合いでなくても、言葉や文化が違う人でも、自分と違う考えを持つ人でも、困っていれば手を差し伸べ、いつも優しさと思いやり、相手を自分と同じように尊重する心を持って接することが大切だと教えています。
イエス・キリストは「目の前にいる人を、自分と同じくらい大切にしなさい」と教えました。この教えは、イエスの教えの中でも特に重要なことの一つです。では、この言葉が何を意味しているのか、具体的に考えてみましょう。
自分を大事にするように、ほかの人を大事にする
まず、わたしたちは自分を大事にする気持ちを持っています。お腹が空けば食べ物を探し、寒ければ温かい服を着ます。つらいことがあれば、誰かに話を聞いてほしいと感じるでしょう。これらは、わたしたちが自分を大切にしているからこそ湧いてくる自然な思いです。
イエスの教えでは、こうした自分を大切にする気持ちを、そのまま他の人にも向けなさいと言っています。たとえば、あなたが「さびしい時は、誰かに声をかけて欲しい」と思うなら、ふだんから、さびしそうにしている目の前の人に自分から声をかける。「心が疲れた時は、誰かに話を聞いて欲しい」と思うなら、ふだんから、他の人の話に耳を傾けるよう努める。それがこの教えの実践です。
愛は、相手を選ばない
この教えが特に大事なのは、私たちがしばしば「この人は助けたいけれど、あの人はいいや」と区別をしてしまうからです。たとえば、自分の友達や家族には親切にするけれど、知らない人や自分にとって嫌な人には冷たく接してしまうことがありますよね。イエスの教えは、そうした垣根を取り払うように求めています。 たとえば、学校で仲良くしていない人や、考え方が違う人、あるいは自分が嫌いだと思っている人に対しても、同じように「この人も大切な存在なんだ」と思うこと。それがイエスの教えが目指しているところです。
知識ではなく、行動すること
イエスの教えは、単に気持ちや理解の問題ではありません。わたしたちの日頃の生き方そのものに対する具体的な指示です。「なるほど、いいことを言っていますね」と同意するだけではたりません。どんな小さなことでも実行することが大事です。 そしてこの教えの根本には、すべての人が神にとってかけがえのない存在であるということがあります。あなた自身が神にとって大切な存在であるように、他の人もまた、神から見れば同じように大切な存在です。神は、どんな肌の色の人も、どんな言葉を話す人も、どんな性別の人も、どんな年齢の人も分け隔てなく大切に思っています。ですからわたしたちも、目の前にいる人は誰でも自分と同じように神から大切にされている人として尊重し、手を差し伸べることが求められるのです。
手を差し伸べる、そこにイエスがいる
このように、イエスが教えた「目の前の人を自分のように大切にしなさい」という教えは、ただのきれいごとではありません。それは、わたしたちが日々の生活で実際に行動を通して表すべき、重要な生き方そのものです。あなたがこの教えを実行しようと一歩を踏み出すのであれば、それはイエスと一緒に踏み出す第一歩となります。簡単にはうまくいかないかもしれませんが、いつもイエスが側にいて、あなたを助けてくれます。「目の前の人を自分のように大切にしなさい」という教えを実行することは、イエスといつも一緒に行動することなのです。
ゆるし合いなさい
イエスは「やられても、やり返してはならない」「他人を憎むのではなく、ゆるしなさい」と教えました。怒りや憎しみはわたしたちを人間以下のものにしてしまいます。やられたらやり返すことを繰り返していては、争いは終わりません。わたしたちが平和に生きるためには、ゆるすことが重要なのです。
具体的な生き方として
イエス・キリストは、私たちがどのように目の前の人と関わればよいのかを具体的に教えました。その中には、復讐しないこと、ゆるすこと、悪い言葉を使わないこと、助け合うことなどがあります。これらはただのルールではなく、神が望んでいる平和をわたしたち一人ひとりの日常の人間関係で実現するための生き方そのものです。
復讐してはならない
「復讐してはならない」という教えは、誰かに嫌なことをされたとき、同じようにやり返してはいけないということです。たとえば、学校や職場で自分が意地悪をされたとき、相手に意地悪を返したくなることがありますよね。でも、イエスは「やり返すと争いが続くだけだよ」と教えています。嫌なことをされたときに「やり返さない」選択をすることで、争いを終わらせることができます。
復讐ではなく、背を向ける
「それでは相手がつけあがるだけだ」「やり返さないと気が済まない」と思われるかもしれません。もちろん嫌なことをされるとわかっている場からは逃げてください。あなたに明らかな悪意をもって接する人とは距離をとってください。あなたは人として尊重される価値があります。わざわざ自分が貶められるところへ出かけていくことは、神も望んでいません。
神の思い
「悪から距離をとること」と「自分が復讐すること」はまったく別です。あなたが怒りや憎しみに支配され、復讐の鬼と化すことを、神は望んでいません。神はあなたに、いつもやさしさや思いやりにあふれた人間でいて欲しいのです。
感情は、選べる
「そんなことを言われても、ひどいことをされたら怒るに決まっているじゃないですか!わたしは仕方なく復讐せざるを得ないんだ!」と言う人もいるかもしれません。けれども神はあなたを、どんなときでも主体的に善と悪を選べる人間として創造し、命を与えました。他人の行為に反射的に対応し、自分の行動を他人の責任にするのは、自分で考えて自分で行動できる人間のすることではありません。あなたはどんなにつらい、苦しい環境に置かれたとしても、そこから逃げ出すことも含め、自分の行動を自分で選ぶことができるのです。
ゆるされたいのに、ゆるせない
このことと関連して、イエスは「たがいにゆるし合いなさい」と教えました。実はわたしたちは他人から自分のことをゆるして欲しいと願っています。あなたは「しまったな、あの人にあんなことを言うのではなかった」と、あとから後悔したことはありませんか?一方で、他人からほんの少し不快な言い方をされただけで「なんでそんなことを言うんだ!ゆるせない!」と、いつまでも怒りを感じ続けることはありませんか?この二つの感情が矛盾していることは明らかです。自分のことはゆるして欲しいのに、他人のことはゆるせないのです。イエスは「あなたが他人からゆるして欲しいように、まずあなたが他人のことをゆるしてあげなさい」と教えているのです。あなたがまず人をゆるせば、人もあなたをゆるしてくれるでしょう。平和はそこから生まれるのです。
人にして欲しいと思うことを、人にしなさい
イエスは、「目の前の人を大切にするというのは、人にして欲しいことを人にすることだ」と教えました。そしてそれこそが人との関係において最も重要であるとしました。
うれしかったことを、人にかえそう
イエス・キリストの「自分が人からしてほしいと思うことを、あなたがまず人にしなさい」という教えは、「自分がされてうれしいこと」を思い浮かべることから始まります。さびしい時に誰かからメッセージをもらったり、話しかけてもらえると心があたたまりますよね。重い荷物を持っている人のためにドアを開けてあげた時に「ありがとう」と笑顔で言ってもらえると、「勇気を出してやったかいがあった、また誰かに親切にしよう」と思えますよね。さあ、あなたも同じように、自分がされてうれしかったことを目の前の人に対して実行しましょう。
イヤな経験は誰にでも
反対に、「こんなことをされて嫌だったな」という経験もあるでしょう。たとえば意地悪な言葉をかけられたり、仲間はずれにされたりすると、心がとても傷つきますよね。また、道で落とし物をした人に「落としましたよ」と教えてあげたのに、無言で拾われて目も合わせてもらえなかったら、せっかく親切にしたのに報われない気持ちになり、「もう親切にするのはやめようかな」と思うかもしれません。
あなたが変える、この世界を
でも、もしみんながそんなふうに、あなたが嫌だなと思う行動をしたらどうなるでしょう?世の中はどんどん冷たく、窮屈で、誰もが孤立してしまう社会になってしまいます。あなた自身も、きっとさびしさやせつなさを深めてしまうことでしょう。
イエスはその反対を教えました。つまり「あなたが本当はこうしてほしかった、と思うことをまず自分から始めなさい」ということです。
してほしかったことを、人にしよう
あなたは以前、誰かから意地悪なことを言われて嫌な気持ちになったことがありますか?では、あなたは人に対して意地悪を言うのはやめましょう。そして意地悪の反対、つまり励ましやなぐさめ、ほめ言葉だけを言うようにしましょう。
あなたは以前、仲間はずれにされて傷ついたことがありますか?では、あなたは人を仲間はずれにしないようにしましょう。そして、さびしそうにしている人を見つけたら、勇気を出して声をかけてあげるようにしましょう。
人に親切にしてあげたのに、お礼を言われるどころか、すげなくされてショックを受けましたか?では、あなたは人に親切にしてもらったら、相手の目をまっすぐ見て「ありがとう」とニッコリ笑うようにしましょう。
ひとりじゃない。イエスがいる。
もちろんうまくいかない時もあります。「よけいなお世話だ!」と誤解されてしまうこともあるでしょう。イエス・キリストはこの目の前の人を大切にする教えをみずから実行し続けた結果、死刑にされてしまいました。けれども「イエスの教えは真実だ」と確信した人々により、キリスト教は世界に広がっていったのです。あなたが目の前の人に、自分がして欲しいことをするのであれば、それは世界で同じように目の前にいる人を大切にする人々と一緒に行動することになります。つまり「人にして欲しいと思うことを、人にしなさい」というイエスの教えを実行するなら、あなたはひとりぼっちではありません。イエスを信じる世界中の人々、そしてイエス自身が、いつもあなたと一緒にいるのです。キリスト教とは「隣人愛のネットワーク」でもあるのです。