わたしはなぜ生きているのか

あなたは、何のために生きていますか?

目次

生きることへの不安

不足はないはず?

今の日本はとても便利です。スマートフォンであらゆる情報が手に入ります。ネット通販でたいていのものが自宅に届きます。コンビニでおいしいもの、ちょっとした必要なものを24時間すきなときに購入できます。配信サービスではいつでも面白い番組を見ることができます。しかもあまりにたくさんありすぎて、話題のものですら全部は見きれません。

幸せな人はどこに?

それなのに、どこか心が満たされなかったり、漠然とした不安を抱えたりしている方が多いように感じます。街を行く人、電車に乗っている人を眺めると、幸せいっぱいの顔をしている人など滅多に見かけません。たとえおしゃれに着飾っていても、ユウウツそうな顔をして、眉を寄せている人ばかりのように感じます。すばらしいテクノロジーの恩恵をたくさん受けているのに、どうしてそんなに不幸そうな顔しかできないんでしょうか?

人の目ばかり気にして

「もっと頑張らなきゃ」「周りに遅れちゃいけない」「もっと認められたい」…そんな声に急き立てられるように、毎日忙しく過ごしているけれど、ふと立ち止まった時に、「私の人生、これでいいのかな?」と虚しさを感じてしまう。SNSを開けば、キラキラした誰かの日常が目に飛び込んできて、自分の人生と比べて落ち込んだり、焦ったり。

つながりはある、ともだちはいない

いったいいつになったら満足できるんだろう?あとどれくらい必死で努力すれば「ああ、何もかも幸せ!」と心から感じられるんだろう?何百人もフォローして、何百人もフォロワーがいて、「つながり」はいくらでもあるのに、心からわかり合える親友はひとりもいない……と、深い孤独を感じている人もいるかもしれません。

手に入れることが人生?

わたしたちは「何かを手に入れること」「何かを達成すること」に人生の意味を見出そうとします。良い学校に入ること、安定した仕事に就くこと、お金をたくさん稼ぐこと、他人に自慢できるパートナーを見つけること、みんなからうらやましがられる家を建てること、人から「すごいね」と言われること……。もちろん目標を持つことは大切です。それに向かって努力できるならば、それはそれですばらしいことです。やりがいのあること、チャレンジすることに面白さを感じられることは、わたしたちに今日を生きる意義を感じさせてくれますよね。

いつまでも満足できない

でももし欲しかったものや目標にしていたものを手に入れたとしても、心の底からの満足感や、揺るぎない平安が訪れるとは限らない、ということも、私たちはうっすらと気づいているのではないでしょうか。目標を達成した瞬間の喜びはあっても、それは一時的なもので、またすぐに次の目標を探し始めたり、手に入れたものを失う不安に駆られたり。「いいね!すごいね!」と言われて舞い上がっても、それもほんの一瞬だけ。いつまでも続く満足感が得られるわけではない……。あるいは、そもそも目標を達成できずに、自分を責めてつらくなってしまうこともあるかもしれません。

心の底からの声

ふだんは忙しさで気を紛らわせていても、ふと立ち止まった時に、心の中からわきあがってくる疑問に、胸が苦しくなることはありませんか?
「わたしはこのままでいいのだろうか?」
「わたしは生きていても意味があるのだろうか?」
「きょう死なずに、あすも生きる必要があるのか?」
実は誰でも考えることではないでしょうか?

キリスト教は、答えます

ひとりでは解けないパズル

キリスト教では、こうした問いを、自分一人で必死に考えなさいとは言いません。そもそも一人で考えても答えは出ないとします。あなたも、一人で考えても結論など出そうにないから、ふだんは「人生とは何か」なんて考えないようにしていたり、別のもので気を紛らわしていたりするんじゃないでしょうか?

神と話しながら

ではわたしたちは自分の人生をどのように考えればいいのでしょうか?それは、神との関係の中で考えるということです。あなた一人の人生をはるかに超えた、もっと長い、もっと偉大な視点から、自分の人生を考えるということです。それは「わたしはなぜ生きているんですか?」と問いかける相手を持つということです。つまり対話しながら考えるのです。一人ぼっちで頭を抱えて悩む必要はありません。

あなたは、偶然なんかじゃない

まず、知ってほしいことがあります。それは、あなたの存在は偶然ではないということです。キリスト教は、すべての人間が神によって造られた存在だと教えています。もちろんあなたには親がいるかと思います。けれども親の意図だけがあなたをこの地上に誕生させた理由ではありません。どんなに子どもが欲しくて、あれこれ努力しても、どうしても子どもに恵まれない人もたくさんいるのです。子どもが生まれるということは、それだけで人間の単なる欲望や意志を超えた神秘なのです。

あなたの存在には、意味がある

神は、無限の知恵と愛をもって、一人ひとりをこの世界に送り出しました。「あなた」という存在は、たまたまではありません。神が意図をもって、望んで、愛して、命を与えたのです。それは親の愛情をはるかに超えた愛です。もしかしたらあなたは親の愛情をあまり感じられずに育ったかもしれません。親の態度からは、自分の生まれた意味を見いだせなかったかもしれません。しかしそのような親の否定的な考えが、あなたの人生の意味を左右することはできません。親などよりももっともっと偉大な、生命の根源である神が、あなたを意味ある存在として愛しているからです。

あなたは、神の「うれしい」

あなたはもしかしたら、自分で自分を好きになれないときがあるかもしれません。自分で自分に意味を見いだせないときがあるかもしれません。自分のことを価値ある存在であると思えないかもしれません。周りの人までが、あなたのことを認めてくれないかもしれません。しかし、だからといってあなたの人生の意味が損なわれることはまったくありません。
神にとってあなたはかけがえのない存在です。あなたが生きているだけで、神はとても喜んでいるのです。自分がいのちを与えたあなたが、今日も生きてくれたことを心からうれしく思っているのです。

あなたは、愛される価値がある

もう少し別の表現をしてみましょう。
あなたにいのちを与えた神は、あなたを含めたすべてのものの「創造主」であるとキリスト教は考えます。この創造主はなぜ人間を造ったのでしょうか?それは、神は愛することが大好きだからです。愛する存在が欲しいので、あなたを造ったのです。つまりあなたは神の愛にふさわしい存在として造られました。ですからわたしたちは偶然生まれた存在ではありません。陶芸家が心を込めて一つの器を作るように、神はあなたを、特別な思いをもって形作りました。陶芸家は自分の気に入らない作品は世の中に送り出しません。神も同じです。神はあなたを「よくできた!これはすばらしい!」と認めたので、いのちを与えました。あなたはそのままで神の傑作です。あなたはありのままで神の宝物です。あなたはあなたのままで愛されるに値する存在なのです。

あなたは「だめな子」「いらない子」なんかじゃない!(少しきつい表現があります。ご注意ください)

もしかしてあなたは「なんてだめな子だ」「おまえなんかいらない子だ」「こんなことなら生まなければよかった」「あなたみたいな子を生んで、わたしは親失格ね」「そんなんじゃ生きていけないぞ」などと言われて育ったかもしれません。

こうした親からの評価はすべて間違っています。どんな親も不完全な一人の人間にすぎません。神は親があなたにそんなひどいことを言うたびに、「なんておろかなことを言うんだ」と涙を流して悲しみました。

「だったら親にそんなことを言わせないようにしてくれればよかったのに!」
そのとおりです。神はあなたの親も愛しています。ですから親に対しても、「おまえはわたしを愛しているよ」「おまえの子どもも愛しているよ、だからおまえはあの子にやさしい愛情を注いでやってくれ」といろいろな形で伝えてきました。けれども神のメッセージをあなたの親は受け入れなかったために、あなたにひどいことを言ってしまったのです。

どうしてそんなことを断言できるかって?
自分は愛されている、愛される価値があると確信している人は、人に対して愛しか注ぎません。もちろんうっかり人を傷つけることを言ってしまったり、いくらか考えが足りずに不用意な発言をすることがあるかもしれません。しかし間違えてしまったと気づいたらちゃんと謝ります。

けれども自分は愛されていない、愛される価値がないという欠乏感の方が大きい人は、まわりの人を愛する余裕がありません。いや、どうやって愛したらいいのかすらわかりません。結果、憎まれ口や悪口、人を傷つけることしか言えず、自分の子どもでさえもひどく傷つけてしまうのです。そしてたとえ自分のしたことが誤りであったと気づいても、謝罪することができません。自分に自信がないからです。人に頭を下げたりしたら、ただでさえほとんどないプライドが粉々に砕け散って、自分は生きていく価値のない人間だと実感せざるを得なくなるのではないだろうかと、小さいこどものようにいつもおびえているのです。

神はこうした人びとを決して見捨てません。あらゆる手を尽くして「おまえもわたしのすてきな作品。愛される価値のある人間。だから、わたしの愛を受け入れて、ほかの人も愛してやって」と呼びかけています。あるときは誰かまわりの人、たとえば学校の先生、クラスメート、あるいは近所の人、とおりすがりの人、さらにはインターネット、テレビ、雑誌、本、新聞、駅の広告から道に落ちている紙切れにいたるまで使えるものは何でも使い、とにかく神は愛を呼びかけています。

しかし神の呼びかけに応えない人がいます。気がついても気がつかないふりをしたりする人もいます。ただそれはすべてが本人の責任とは限らないこともあります。愛されたことの少ない人は、愛することの大切さを呼びかけられたとしても、その重要性がなかなかわかりません。あなたの親も、もしかしたらその親(あなたの祖父母)からひどいことばかり言われて育ってしまい、同じことをあなたに仕返しているだけかもしれません。悲しい、やりきれない、負の連鎖です。神もそんな人間たちの終わらない苦しみを、心から悲しく思っています。

そうは言っても、これはあなたにとって、とてもとてもひどい話です。あなたはそのようにひどい扱いを受けるべきではありませんでした。あなたの親があなたにしたことは間違っていました(そしておそらく今も間違っていることをしているでしょう)。あなたは不当な扱いを受けました。あなたは受けなくていい苦しみをこうむりました。

けれどもあなたはこのページにたどり着き、神の愛の呼びかけを読みました。今日まで生きのびて来てくれたんですね。生きていてくれて本当にありがとう。そして神の呼びかけを探して、見つけてくれてありがとう。今まさに神はあなたに呼びかけています。
「あなたを愛しているよ!あなたのことが本当に大好きだよ!だからあなたは自分に自信を持って!あなたは愛される価値があるんだよ!あなたも人を愛することができるんだよ!」

さあ、人を愛さない負の連鎖にあなたが終わりを告げるときが来ました。あなたが変われるよう、神があなたを助けます。どうすれば人は変われるでしょうか?大丈夫、神と話しながら少しずつ前へ進みましょう。神と話す方法、それはあなたを愛している神に祈ることです。


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