キリスト教における「罪」の意味
「罪」という言葉を聞くと、責められているように感じたり、無理に罪悪感を背負わされるような気がするかもしれません。たしかに、日常生活の中では「罪」という言葉はあまりポジティブな印象を持たれませんよね。けれども、キリスト教が語る「罪」とは、「あなたは悪い人間だ」と断罪するための言葉ではありません。それどころか、むしろ「神があなたをどれほど深く大切に思っているか」を伝えるためにある言葉なのです。
罪とは自分を見失うこと
キリスト教における「罪」とは、「自分の行いや選択によって、神や他の人とのつながりが壊れてしまうこと」を指します。たとえば、誰かを傷つけてしまったり、自分勝手なふるまいをしてしまったりしたときに、「どうしてあんなことをしてしまったんだろう」と後悔した経験はありませんか? その瞬間、人は孤独や後悔に苦しみ、心のどこかで「本当はもっと違う生き方がしたかった」と思うことがあります。罪とは、単なる「ルール違反」ではなく、そうした「本当の自分らしさを失ってしまうこと」なのです。
苦しみからの解放
誰でも、間違いを犯してしまうことがあります。人を傷つけたくないと思っていても、意図せず誰かを傷つけてしまうこともあるでしょう。「もう人生をやり直せないかもしれない」と感じることさえあるかもしれません。キリスト教は、その「苦しみ」から解放される希望を伝えるためにこそ、「罪」という言葉を語るのです。
自分を見つめるために
キリスト教が伝えるのは、決して「あなたは罪深いから罰を受けるべきだ」というメッセージではありません。むしろ、神は「もうあなたはゆるされているよ。だから一緒に新しい一歩を踏み出そう」と、やさしく声をかけてくださる存在です。キリスト教が「罪」を語るのは、あなたを責めるためではなく、あなたが「自分の本当の姿を知ることで、神の愛に気づくことができるようにするため」なのです。
本当の自分への第一歩
私たちは、自分の間違いや過去の過ちを振り返ると、目を背けたくなることもあるでしょう。でも神はそんな私たちを責めることはありません。神は、わたしたちが自分の本当の姿、魂の奥底をまっすぐ見つめる勇気を持てるように「大丈夫だよ」「何度でもやり直せるよ」「あなたは一人で人生を背負っているのではないよ」と励まし、支え続けてくださるのです。だからこそ、キリスト教において「罪」を認めることは、決して恐ろしいことではなく、むしろ「本当の自分を取り戻すための第一歩」となるのです。
罰するのではなく愛するのがキリスト教
よく誤解されますが、キリスト教の目的は「人を罪人だと責めること」ではありません。むしろ最も大切なことは「私たちはたとえどんな罪を抱えていても、神に深く愛されている」ことです。神の愛は、罪の有無にかかわらず、すべての人に等しく注がれています。どんなに過ちを犯してしまっても、神はその人を見捨てることはありません。
キリスト教は、光と希望の教え
もし、今苦しい思いを抱えているのであれば、少しだけ神の声に耳を傾けてみませんか? そして、自分の中にある影の部分に向き合う勇気を神からいただきましょう。神を信じることで、私たちは心の奥底にある苦しみを正面から受けとめ、そこに神の光と希望を見いだすことができます。そして、新しい自分へと生まれ変わる道が必ず開かれるのです。
それでも罪を強調する教会について
特にプロテスタントの中には、毎週これでもかというくらい「罪」の話をする教会(あるいは牧師)があったりします。
これはアメリカにおけるキリスト教の歴史が関係しています。19世紀、欧米では都市に貧しい労働者階級があふれ、厳しい長時間労働と低賃金の残酷な生活から気を紛らわすため、お酒や夜遊びに溺れて人生を台無しにしてしまう人々があまりにもおおぜいいました。本人だけならまだしも、一家の父親がお酒で体を壊してしまうと、幼い子どもたちや母親は路頭に迷い、悲惨な状態に陥ることも少なくありませんでした。
心あるクリスチャンたちは、この人々を救うために「生活改善」を掲げて貧困救済に取り組みました。もちろん底辺の人々が貧しい生活を強いられていたのは社会構造的な問題が大きいので、決して自己責任ではありません。ですが、生活を変えるためには当事者たちにも人生や道徳の価値を認識してもらう必要があります。お酒や夜遊びに溺れていた時期を「反省」して、新しい生き方を習得してもらうために、宗教的に「罪」を自覚することが強調されたのでした。
この100年以上前のアメリカにおけるプロテスタントのスタイル、つまり何よりもまず個人の罪を強調し、自己反省を強く促すスタイルをそのまま続けている教会が今もそれなりに見られます。日本でも時折見られます。
けれどもおそらくですが、毎日まじめに仕事を頑張っているのにブラック企業でもう限界とか、学校でいじめられてつらくて仕方がないといった思いをしている皆さんにとっては、「まず自分の罪を自覚せよ」など言われてもよけいつらいだけだと思います。むしろ「そんなに私が悪いのか!ぜんぶ自己責任なのか!もっと努力しなければならないのか!もう限界だ!これ以上は無理だ!」とよけい絶望するだけでしょう。
キリスト教会は、「罪」を強調する教会ばかりではありません。「なぐさめ」「はげまし」「いつくしみ」を丁寧に語り、あなたの傷ついた心に寄り添うことを第一に考えようとする教会もたくさんあります。キリスト教の教えの中で、いま何を重視しているかは教会によって異なります。ぜひ今の自分に合う教会を見つけてくださいね!
