ここではキリスト教の教えの中から、この世界に関する、おもな5つのことがらを紹介します。
- 宇宙のすべては、神がつくったもの
- 神はたった一人で、どんなことでもできるし、何でも知っている。そして、ずっと変わることがない
- イエス・キリストは、私たちを助けてくれる救い主
- 聖霊は、今この瞬間も私たちの心に働きかけて、力や知恵を与える
- 神はこの世界をやがて完成させ、すべてを新しくする
宇宙のすべては、神がつくったもの
夜明けの朝日はどうしてあんなに美しいのでしょう?
森の中に入ると、どうして心がほっとするのでしょう?
夜空の星を見上げると、どうして胸がいっぱいになるのでしょう?
この世界には、どうしてこんなにたくさんの命があって、それぞれが調和しているのでしょう?
そして、私たちの体はどうしてこんなに複雑で、でもひとつのいのちとして働いているのでしょう?
それは、すべてをつくられた神が、この世界に「美しさ」と「ふしぎ」、そして「きちんとしたしくみと目的」を与えたからです。自然の中で、あるいは自分自身を見つめながら、私たちが自然の神秘を感じるとき、神がいることを少しだけ知ることができます。
この世界は、美しく、神秘的
暗かった空が少しずつ青みを帯びて明るくなり、オレンジ色の光が地平線から差し始める時、人はなぜ思わず立ち止まってしまうのでしょうか。やがて真っ赤な太陽が姿を現わし、地上をあかあかと照らし始めると、どうしてわたしたちはその美しさに心を奪われてしまうのでしょうか。 深い森の中を歩くと、なぜ穏やかな気持ちになれるのでしょうか。ひんやりとした空気なのにあたたかく包まれているように感じ、体の中がすがすがしく清められるような気がしてくるのはどうしてでしょうか? 人里離れたところで夜空を見上げ、頭上いっぱいに広がる満点の星を見つめると、自分が無限に広がったような不思議な感覚にとらわれるのはなぜなのでしょうか?手を伸ばしても決して届かないにもかかわらず、いつまでも星を見つめ続けていたくなるのはどうしてでしょうか?
いのちの神秘は、神の神秘
わたしたちが夜明けの光や澄んだ空気、夜空の輝きに心を打たれるのは、決して偶然ではありません。すべては、わたしたちを愛している神がつくったものです。森羅万象が「美しさ」を持ち、「不思議」で「神秘的」な印象を与えるのは、神がそのように全宇宙を設計してつくったからです。同時に神はこの世界を、秩序あるものとしてつくりました。ですから天地万物には、神のすばらしさがあふれているのです。
あなたが生きているのも、かけがえのない神の神秘
そしてわたしたちも神の手による宇宙の一部としてつくられました。ですからわたしたちも全員が「いのちの美しさ」「いのちの不思議」「いのちの神秘」を持っています。あなたは神が愛情をこめてつくった、美しく、不思議で、神秘的な存在なのです。そして一人ひとりがみな、大宇宙の秩序の中に、かけがえのない唯一の存在として位置づけられています。あなたには、神の光のかがやきが映し出されているのです。
宇宙の調和は、神の知恵と愛
神がつくったこの世界には調和があります。生命体と無機物とが行き交い、いのちが受け継がれ、それぞれに役割が与えられています。一種類の動物が絶滅すると、そのまわりの環境が大きく変化してしまうことがあります。それは神のつくった調和が崩れてしまうからです。 わたしたちは自然の恵みなしには生きていけません。人間がこの世界で横暴な独裁者のように振る舞い、自然を無目的に破壊するならば、やがて人間自身がその不調和の結果を受け取ることになります。人間が何もしなくても宇宙が調和しているのは、神の知恵と愛の表れです。神はすべてを見渡して、無駄なく、きちんとした目的と意味を持つものとしてつくったのです。
あなたは愛されるために生まれた
ですからあなたの人生にも神が与えた意味があります。あなたの人生にも神が与えた目的があります。人生の意味と目的は、さまざまな人間関係の中で、また自然との関わり合いの中で少しずつ明らかになります。あなたも神の知恵と愛の表れである天地万物の一部だからです。すべてのものをつくった神は、その無限の創造力を「愛」という形であなたに注ぎます。あなたは大切なものとしてつくられ、見守られています。自然をつくり、保持している神は、限りないいつくしみをもってあなたにいのちを与え、深い愛情をもって見守り続けているのです。
宇宙は神のアート作品
大自然の美しさに感動する時、顕微鏡で見る世界の緻密さに驚嘆する時、わたしたちはそこに、愛情をこめてこの世界をつくった神の指の跡を見ます。すばらしい彫刻作品が彫刻家の独創性の反映であるように、宇宙のすべては神そのものではなく、創造者である神の偉大さの反映です。 自分自身を見つめる時、人体のしくみに驚きます。意識しなくても脚を使ってまっすぐ歩くことができ、命令していなくても心臓は適切に動き続け、努力しなくてもちょっとしたケガは自然に治癒します。これほどの複雑な仕組みをそなえたあなたは、神のすばらしい作品です。
わたしたちは神の愛の結晶
微笑みを投げかけると、相手も笑顔になります。あたたかい手でぎゅっと握手をすると、相手も思わず握り返してくれます。愛情にあふれた言葉をかければ、相手から心からの感謝が返ってきます。わたしたちは神の愛が注がれる器です。ほかの人たちとやさしさ、まごころ、思いやり、ゆるし、希望を分かち合う時に、もっとも活き活きとした存在になれます。それはこの大宇宙の秩序において、愛の中で生きるためのいのちとして神がわたしたちを創造したからなのです。
神は、全宇宙でただひとり。どんなことでもできるし、何でも知っている。そして、ずっと変わることがない
神は、限りないいつくしみと優しさそのものです。限りがありませんから、すべてを包むこのいつくしみとやさしさはただ一つです。 その力は、どんなへだたりも越え、誰の心にも必ず届きます。
私たちが苦しんでいるとき、神はそっと隣に座り、涙をやさしく拭い、痛みを抱きしめてくれます。
弱い人を見つけると、神様はその手を取り、「大丈夫、わたしはここにいるよ」とやさしく声をかけ、力を与えてくださいます。
神がなんでもできるというのは、ただ強いということではありません。 それは、誰よりも深くいつくしみ、誰よりもやさしく寄り添い、誰よりも忍耐づよく人を愛し続けるという、すべてを包む希望の光としての力なのです。ただひとりの神を信じるというのは、この限りないやさしさといつくしみ、つまり永遠で唯一の真実な愛を信じるということなのです。
すべての創造者、永遠・全知・全能
キリスト教では、神はひとりだけと信じています。すべてのものの創造者であり、いまもすべてのものを支え、導いています。そして、時間や空間の限界を超えた永遠の存在です。 神は何でも知っています。わたしたち一人ひとりの髪の毛の本数さえも知っています。そして何でもできます。神にできないことはありません。
最高のやさしさといつくしみ
何でも知っていて何でもできるというと、もしかしたら弱肉強食の頂点に立つ、何でも気まぐれに好き放題する絶対君主のようなイメージを抱くかもしれません。しかしそれは違います。 神が何でもできるというのは、やさしさやいつくしみにおいて何でもできるということです。わたしたちは他人を受け入れて大切にすることを不完全にしか実行できませんが、神はそれを完全に実行できるのです。つまり神の力というのは、支配や恐怖ではなく、限りないやさしさといつくしみとして示されるのです。
孤独という病
わたしたちが最も恐れるものに、孤独があります。一人暮らしの人だけではありません。たとえ家族と一緒に住んでいても、心は孤独の闇に包まれている人がおおぜいいます。他者の孤独をいやすのは簡単ではありません。常に寄り添い、励まし、慰める人でさえも、孤独にさいなまれることがあります。
光は孤独の闇を消し去る
しかし神はわたしたちを孤独から救うことができます。神がいつくしみそのものであり、限りないやさしさでわたしたちを大切にしているというのは、わたしたちの心のともしびです。闇を打ち払うのは光です。わたしたちが孤独を感じ、他の人によってなぐさめてもらうことができなくても、神はわたしたちの心を光で照らします。神は無限の光だからです。
愛をつらぬけない私たち
わたしたち人間の忍耐には限界があります。人を愛そうと思ってもうまく愛することができず、かえって相手を失望させることもあります。今はじっと待つ時であるとわかっていても、待ちきれずに堪忍袋の緒が切れたり、相手を見捨てたりすることがあります。
神の愛は無限
しかし神の忍耐強さには限界がありません。わたしたちが神に立ち返るのを、その時がくるまでじっと待ち続けます。そして帰るのがどんなに遅くても、決して怒らずに、あふれるいつくしみとやさしさで迎え入れてくれます。神は何でもできるからです。わたしたちの自由を尊重し、よけいな口出しをせず、決して見捨てることなくわたしたちのそばにいてくださいます。人間にできない忍耐強さを、神はわたしたちに注いでくださるのです。これこそが、神がわたしたちを愛しているということです。
あふれる愛の泉
この神の愛には限りがありません。誰かに注いでしまったので、もうあなたに注ぐ愛は残っていないなどということは決してありません。神が永遠であるというのは、神の愛が永遠であるということです。
あなたへの愛は変わらない
人間どうしの愛は時間とともに変化し、枯れてしまうことがありますが、神の愛は変わることなく、あなたに注がれ続けます。たとえ何度失敗しても「もう神はわたしを愛してくれないのでは?愛が怒りに変わるのでは?」と心配する必要はありません。いつまでも変わることのない神は、いつまでも変わることなくあなたを愛し続けてくれるのです。
イエス・キリストは、私たちを助けてくれる救い主
イエス・キリストは今から2000年ほど前、神が私たちをどれほど愛しているかを教えるために、この世界に来ました。
「神を心から信じ、愛しなさい。そして目の前にいる人を自分のように愛しなさい」
それがこの世界でいちばん大切なことだと、イエスはやさしく語りかけてくれました。
でも私たちはうまく人や自分を愛せなかったり、人や自分を傷つけたり裏切ったりしてしまいます。そのためわたしたちは罪悪感や孤独に苦しみます。自分の人生に意味を見出すことが難しくなることさえあるかもしれません。
そんな私たちを救うために、イエスは自分の命を差し出し、十字架にかかりました。
それは、神の愛がどんなに深く、どんなときも私たちを見捨てないものかを教えてくれる、とても大きな愛のしるしでした。けれども、それが終わりではありませんでした。
イエスは三日目に復活し、死を打ち破りました。そのとき、私たちにも大きな希望が生まれました。「死は終わりではないよ。新しい命への扉なんだ」とイエスは身をもって教えてくれたのです。
イエスの愛は、自分の命をも惜しまずに私たちに注がれた愛です。
これほど深く力ある愛によって、私たちは永遠のいのちという、すばらしい希望を受け取ることができるのです。
あなたを愛するために来たイエス
イエス・キリストは今から約2000年前、私たち人間に神の愛を教えるためにこの地上に現れました。イエスは単に自分の考えを広めた思想家だったのではありません。そうではなくて、わたしたちが神の愛を受け取り、信じることができるようにするために命をかけて行動しました。
イエスは愛の実行者
イエスの教えの中心は、「神を心から信頼しなさい。そして目の前の人を自分のように大切にしなさい」というものです。この二つの教えは、キリスト教における最も重要な指針であり、わたしたちがどう生きるべきかを明確に示しています。イエスは神が私たちをどれほど深く愛しているのかを語り、行動を通してその愛を示しました。たとえば病気の人をいやし、空腹の人に食べ物を与え、孤独な人と一緒に食事をし、泣いている人と一緒に涙を流しました。
愛を行うことはむずかしい
一方でわたしたち人間はイエスが教えた神の愛を完全に実行することが難しい存在です。他人を愛することができず、傷つけたり、裏切ったりしてしまうことがあります。自分自身を大切にできないこともあるでしょう。その結果、罪悪感や孤独、自己否定の感情にさいなまれ、自分の人生の意味を見失うことさえあります。
あなたのためなら死んでもいい
そのようなわたしたちに対し、イエスは自分の命を差し出すという形で、神の愛を示しました。十字架刑という、当時最も屈辱的で苦しい死刑を自ら受け入れたのです。それはわたしたち一人ひとりを愛するための大きな犠牲でした。この出来事は、神がどれほど深くわたしたちに愛情を注いでいるか、決して私たちを見捨てないかということを示す最大のしるしです。「あなたのためなら死んでもかわない」という、この上なく大きな神の思いやりであり、見返りを求めない自己犠牲による手助けです。イエスの死は、人間の罪や失敗を越えて、神が私たちを完全にゆるしてくださるという約束そのものなのです。
イエスの復活、わたしたちの希望
しかし、イエスの物語はそこで終わりではありませんでした。イエスは死後三日目に復活しました。この復活は、単に死んだ人が生き返る奇跡ではなく、わたしたちも経験する死そのものを打ち破る出来事でした。復活を通して、イエスは「死は終わりではなく、新しい命への扉だ」という希望をわたしたちに示しました。この希望は、わたしたちが抱える不安や恐れ、人生の限界を超えた永遠の希望そのものです。
イエスの贈り物は、永遠の命
イエスの十字架での死と、そのあとの復活は、神の愛が持つ力を象徴しています。神がわたしたち人間を大切に思う気持ちは、命を犠牲にするほど深く、死という最大の敵をも克服するほど強いものです。わたしたちはこの神のゆるしといつくしみによって永遠の命というすばらしい希望を受け取ることができるのです。
聖霊は、今この瞬間も私たちの心に働きかけて、力や知恵を与える
聖霊は、神とイエス・キリストの愛そのものです。
イエスが復活し、天に昇ったあと、その愛は聖霊となってイエスの弟子たちに注がれました。
聖霊は、イエスが「私はいつもあなたたちと共にいる」と約束してくださった、その約束を実現する存在です。
聖霊は、いまも私たちの心にそっと語りかけます。
「神をもっと信じようよ。人をもっと愛そうよ」と。
聖霊の愛が心に触れると、私たちの内側に小さな光がともり、その光がだんだんと明るくなって、周りを照らしていきます。
聖霊の愛は、やさしくて、あたたかくて、光かがやいているので、どんな暗闇にも消えません。聖霊の愛が心に満ちるとき、私たちは勇気を持ち、困難を乗り越え、自分を受け入れ、誰かをやさしく抱きしめることができます。
聖霊の力によって、私たちは神と深くつながり、イエスが教えてくれた愛を生きることができるのです。
神の愛、聖霊
聖霊とは、神とイエス・キリストの愛そのものです。聖霊は、イエスが復活し、天に昇られた後、弟子たちに与えられました。それは、イエスが地上で直接弟子たちと共にいたように、天に昇った後も「私はいつもあなたたちと共にいる」という約束を果たすためです。聖霊は、見えないけれども、確かに働き、神の愛とイエスの教えを私たちの心に響かせてくれる存在です。
聖霊の降臨
イエスは復活したあと、40日間にわたって弟子たちの前に姿を現わしていましたが、天に昇って見えなくなりました。イエスの昇天から10日後、弟子たちはエルサレムの一室で祈っていました。その時、突然激しい風のような音が響き、炎のような舌が彼らの上に降りました。これが聖霊が弟子たちに与えられた瞬間です。その結果、弟子たちはさまざまな言語で大胆にイエスの教えを語り始め、多くの人々を神へと導くようになりました。このできごとは、聖霊が神と人々を結びつける力であり、神を語ることを助ける存在であることを示しています。
わたしたちに寄り添う聖霊
では、聖霊は現在のわたしたちにどのように働くのでしょうか? まず、聖霊はわたしたちの心に語りかけます。祈りや静かな時間の中で、心の中に「もっと神を信頼してみよう」「目の前の人を大切にしよう」という思いが芽生えることがあります。それは、聖霊がそっと働きかけている証拠です。聖霊はやさしい存在で、強制することはありませんが、わたしたちが神に心を開こうとする時、神とわたしたちを結ぶかけ橋となり、神のことばをわたしたちの心に届けてくれます。
わたしたちを変える聖霊
聖霊のもう一つの働きは、わたしたちを変える力です。人間は弱く、時には他人を傷つけたり、自分のことを愛せなかったりします。しかし、聖霊が心に触れると、わたしたちの中に小さな光がともります。その結果、過去の過ちを受け入れ、神にゆるしを願い、自分と人をいちばん大切にする生き方を選ぶ勇気が生まれます。さらに周囲の人々にもその光を届け、思いやりや優しさを分かち合うことができるようになります。
わたしたちを励ます聖霊
聖霊は、私たちが困難に立ち向かう力も与えてくれます。試練や悲しみ、不安に襲われたとき、わたしたちは決してひとりぼっちではなく、神がいつも一緒にいてくれることを思い出させ、さらに「わたしは一人じゃない、神がそばにいる」という実感を与えます。これこそが、聖霊がもたらす安心感と希望です。
わたしたちを助ける聖霊
聖霊はわたしたちが神に祈るときの助け手でもあります。言葉にできない思いや、どう祈ったらよいか分からないときでも、聖霊はわたしたちの言葉にならない思いを神に届けてくれます。そして祈りの言葉を唇に授けてくれることもあります。このことは、聖霊が神とわたしたちの間を取り持つ存在であることを示しています。
わたしたちを照らす聖霊
聖霊がわたしたちの心の奥底にもたらすやさしさ、あたたかさ、力強さは、わたしたちの心の暗闇を明るく照らします。その光はどんな暗闇にも消えることがありません。絶望、孤独、不安はこの光に照らされると力を失います。そして、この光が心に満ちるとき、わたしたちは勇気を持ち、困難を乗り越え、自分を受け入れることができるようになります。聖霊の光に照らされるならば、イエス・キリストが教えたように、周りの人々を愛し、抱きしめることができるのです。
神の愛の息吹、聖霊
ですから聖霊は神の愛の息吹です。その働きによって、わたしたちはいつも神と深くつながり、日々の生活の中でイエスが示してくれた愛を生きることができます。聖霊を通して、神はわたしたちと共におられ、どんな時も支え、導いてくださるのです。
神はこの世界をやがて完成させ、すべてを新しくする
キリスト教では、この世界がいつか終わりを迎えると信じていますが、それはすべてがなくなるわけではありません。人間が作ったものは役割を終えますが、神が作った良いものは完成し、残ります。
神と人とのつながり、人と人とのきずなは完全なものになり、不完全だったわたしたちも新しい命を与えられて、完成された姿に変わります。そしてその時は神の愛もはっきりとわかるようになり、永遠の神の愛に包まれて生きることになります。ですから、いまわたしたちにできるのは、いつまでも残る愛を行うことです。愛はどんなに小さくても、神はそれを受け止め、いつか完成させてくれます。
たとえば、人を大切にし、困っている人を助けたり、やさしい言葉をかけたりすること。それがほんの小さなことだったとしても、決して無駄になることはありません。あなたが行った愛は、いつか新しい世界の一部として永遠に輝くのです。
世界の終わり
キリスト教では、この世界がいつか終わりを迎えると信じています。世界の終わりと聞くと「すべてがなくなってしまう」という悲観的なイメージを抱くかもしれませんが、そうではありません。終わるものもあれば、完成するものもあるという希望に満ちた教えです。
消え去るもの
まず、終わるものについて考えてみましょう。私たちが日々目にする建物や芸術作品、音楽、技術など、人間が作り出したものは、どんなに立派で素晴らしくても永遠にそのまま残ることはありません。それらは役割を終える時が来ます。しかし、それは意味がないということではありません。それらはこの世界の中で大切な役割を果たしてきました。人々に幸せを分け与え、愛を分かち合う役に立ったのであれば、何とすばらしいことでしょう!
なくならないもの
次に、残るものについて見ていきましょう。神がつくった良いものは永遠に残ります。たとえば、神と人とのつながり、人と人との信頼関係などは、今は不完全であったとしても、やがて完全なものとして完成すると信じられています。それは神が愛によってすべてを包む世界ができあがるということです。すみずみまで光に照らされているところには闇がないように、すみずみまで神の愛が行き渡っているところには、もはや悲しみも怒りも嘆きも怒りもありません。一新された世界が完成するのです。そこでは、わたしたち一人ひとりが新しい命を与えられ、より素晴らしい存在に変えらます。わたしたちは神が計画していた、完成した姿にしていただけるのです。
はっきりと見えるようになるもの
また、神が注ぐ愛も完全に明らかになるとされています。いまの私たちは、神がわたしたちを大切に思っているということをほんの少ししか感じられないこともあるかもしれません。しかしこの世界が終わると、神がわたしたちに注ぐやさしさやいつくしみを妨げるものはすべて取り除かれます。そして新しい世界が完成すると、神の思いを完全に理解できるようになり、私たちは永遠に神の愛に包まれて生きることになります。
終わりを見すえて、今日を生きる
ではこの「世界の終わり」に向けて、私たちは今どのように生きるべきなのでしょうか?それは神の愛に応えて「愛を実行すること」です。たとえば、目の前の人やさしく接すること、見返りを期待せずに困っている人に手を差し伸べること、どんな時でも相手にあたたかい言葉をかけること、たとえ誰かに嫌なことをされても、それをやり返さない勇気を持つことなどです。これらの行動は、時に不完全にしか実行できないかもしれませんが、神はそれを決して見逃さず、すべてを受け止めてくれます。
永遠に残る、今日の行動
そして、これらの小さな愛の行動は、終わりの時に神によって完成され、新しい世界の一部として永遠に輝くと信じられています。つまり私たちの日々の行いは未来の新しい世界に直結しているのです。わたしたちの日々は、長い歴史の中に溶けて消え去ってしまう、はかないものではありません。そこにわずかでも愛があれば、その一瞬は永遠とつながっています。
いまを生きる、永遠に生きる
だからこそ、キリスト教では「いまを大切に生きる」ことが重要とされます。きょうこの時を、神の愛に応えるべく、少しでも愛に生きるならば、私たちの心に永遠の希望の光が差し込み、未来への扉を開いてくれるのです。
そしてこの世界の終わりを恐れる必要はありません。それはすべてが完成する時であり、わたしたちが神の愛の中で永遠に生きることができるという、この上ない希望なのです。