イエスは「救い主(ぬし)」を意味するキリストと呼ばれます。このイエス・キリストを信じることはキリスト教の教えの中心です。
わたしたちは、自分を救えない
わたしたちは良いことをしようとしてもうまくできず、かえって悪いことをしてしまったりします。人を愛することは大事だと頭でわかっていても、うまくできません。そのために人を傷つけ、自分も傷つきます。自分で自分をコントロールできないのです。
自分で自分をうまくコントロールできない
わたしたちは「こうした方がいい」と頭でわかっていても、うまくできないことがよくありますよね。「人にやさしくしよう」と思っていたのに、ついイライラして冷たい態度をとってしまったり、相手を思いやる言葉を言おうと思っていたのに、傷つけるような言葉が出てしまったりします。こうした失敗を重ねると、誰かを傷つけてしまった後悔や、自分で自分が思うようにできない無力感に悩むこともあります。
本来なら助け合い、いたわり合い、愛し合いながら生きていくはずの家族でも、ときには怒りや憎しみ、暴力が渦巻く場になってしまうことがあります。「永遠の愛」を誓ったはずの相手が、いつしか最も憎んでしまう相手に変わってしまうこともあります。ずっと仲良くしていたいと思っていた友人が、ある日突然、もう二度と顔を見たくない人になってしまうこともあります。
弱さから逃れられない
どうしてこんなことが起きるのでしょう?それは、人間には生まれつき「自分勝手な気持ち」や「弱さ」があるからです。この「弱さ」は、わたしたちが本当は支え合い、助け合い、ゆるし合うために生きるべき存在なのに、それができない方向に引っ張られてしまう力のようなものです。たとえば、「人を助けたい」と思う気持ちよりも、「それより自分のことが大事だ」という気持ちが勝ってしまったり、他の人に感謝するよりも「自分が得をした。それだけでいい」と思ってしまったりすることがあります。
孤独、不安、争いはどこから
キリスト教では、この「自分をコントロールできない弱さ」は、人間すべてが抱えている共通の問題だと教えています。そしてこの問題は、ただわたしたち一人ひとりの個人的な性格や努力の足りなさによるのではなく、人間がもともと持っている「神から離れて生きようとする選択」が原因だと考えられています。神はわたしたちに「愛し合うこと」「調和して生きること」を望んでいますが、わたしたちはその声を聞かず、自分の欲望や目先の利益を優先する選択をしてしまうのです。その結果、わたしたちの心には不安や孤独が生まれ、社会にも争いや不平等が広がってしまいます。
消せない心の傷
このように、わたしたちはみんな心の中に「正しいことをしよう」という気持ちと、「自分の都合を優先したい」という気持ちを持っています。この葛藤は、人間であれば誰でも経験するものです。キリスト教では、これを「心の中にある傷」のようなものだと考えます。この傷があるせいで、わたしたちは本当の意味で自由に生きられず、自分自身や他の人を傷つけてしまいます。
本当の自分とは?
「努力すれば何とかなるはずだ」「精神療法やカウンセリングで解決できる」「自分をコントロールできないのはただの怠けだ」と思う人がいるかもしれません。でも、すべてを完璧にコントロールできている人なんて本当にいるのでしょうか?たしかに、SNSには完璧に見える人たちの投稿があふれています。でも、それがその人の本当の姿だと言えるのでしょうか?
少し考えてみてください。あなた自身のことを振り返ると、ネットに投稿している「映える」姿が、あなたの本当の姿そのものですか?むしろ、「これはとても他人には見せられない」と思う自分の側面こそが、自分の本当の姿だと感じて悩んでいるのではありませんか?その悩みこそが、あなたの人生における最大の問題になっているのではないでしょうか?そしてその悩みを誰にも打ち明けることができずに苦しんでいるのではないですか?
イエスはわたしたちを救った
イエス・キリストは、私たちのこのどうしようもない苦しみの状態を全部引き受けました。そのためにイエスは十字架で命をささげました。それは「あなたのためなら命をかけてもいい」という、神のとても深い愛を表しているのです。だからわたしたちは一人で苦しむ必要はありません。わたしたちの苦しみを一緒に背負い、支えてくれる方がいるからです。
イエスの登場
約2000年前、今のイスラエルとパレスチナの地域に、イエスという人物が現れました。イエスは「神を心から信頼すること」「自分を大切にするように、目の前にいる人を大切にすること」がいちばん大切だと語りました。その教えは形式的なルールや儀式ではなく、人間の心の深い部分に触れるものでした。
イエスは病気の人や差別されていた人たちに進んで近づき、彼らをいやし、一緒に食事をしました。誰からも見捨てられた人々にもやさしく接し、同じ人間としてその価値を認めました。イエスの行動は、多くの人々を驚かせ、希望を与えました。そして、イエスには何十人もの弟子が従うようになり、その教えは広がっていきました。
逮捕と死
しかし、イエスの活動を危険視した当時の権力者たちは、彼を政治的な反乱者として逮捕しました。イエスは武力も持たず、抵抗もしませんでした。それどころか、弟子たちが恐れて逃げ出しても、彼らを責めることはありませんでした。
イエスは裁判にかけられ、不当な手続きの末に死刑を宣告されました。その方法は十字架刑という非常に残酷なものでした。クロスした木材に手足を太いクギで打ちつけられ、木材が垂直に立てられると、全体重がそのクギにかかるたびに激痛が走るというものでした。受刑の多くは数時間以内に痛みのあまりショック死したり、クギを打たれた傷からの出血多量で死亡します。誰もが壮絶な苦痛の中で死ぬ刑罰、それが十字架刑でした。しかしイエスはその苦しみの中でも、自分を死刑にした人々をゆるし、公開処刑の場で自分を侮辱する民衆を恨むこともありませんでした。むしろ「神よ、彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのか、自分でわかっていないのです」と神に祈りました。そして、十字架の上で最期の祈りをささげ、静かに息を引き取りました。
わたしたちの影を引き受けて
なぜイエスはこのような苦しみに耐えたのでしょうか?なぜ弟子たちに裏切られても怒らず、裁判で弁明せず、民衆に嘲笑されても恨まなかったのでしょうか?
それは、イエスがわたしたち人間のすべての弱さや醜さ、愚かさを引き受けたからです。わたしたちは時に、自分の利益や立場を守るために他人を傷つけたり裏切ったりしてしまいます。そして、それを正当化してしまうこともあります。自分が上に立つ快感を得るために、SNSなどで他人を非難し、攻撃し、見下すような行動は、わたしたち弱さ、醜さ、愚かさの一例かもしれません。イエスは、わたしたちのそのような姿をすべて知りながらも、決して悪に悪で返すことをせず、憎しみを抱くこともなく、怒りを露わにすることもありませんでした。
究極の愛
イエスは自分の命をもって、わたしたちに「本当に大切なこと」を示しました。それは、どんなに相手がひどい人でも、その人をゆるし、尊重し、思いやり、その人のために最善を尽くすことです。つまりそれはどんな時でも人を愛することです。それは普通の人間にはとても難しいことです。しかし、イエスはそれを命をかけて実行しました。これこそが神の愛そのものであり、わたしたちが目指すべき愛の究極の姿です。
苦しみを希望に
わたしたちは時に、自分の弱さや愚かさから、人を裏切ったり、見捨てたり、傷つけてしまうことがあります。そしてその行為が、実は自分自身をも傷つけていることに気づいて、深く苦しむことがあります。このような苦しみを抱えるのは、誰にでも経験のあることかもしれません。
イエス・キリストは、わたしたちのそうした弱さや愚かさをすべて知っています。十字架刑を経験することで、イエスは人間の裏切りや見捨てられる痛み、そしてその背景にある人間の弱さを身をもって味わったのです。イエスは、わたしたちが自分の過ちによって苦しむとき、その痛みを一緒に背負い、慰めてくれます。イエスが十字架で命を捨てたのは、わたしたちの愚かさや弱さをすべて引き受け、人間にはできない神の深い愛によってそれをゆるし、わたしたちに新しい希望を与えるためだったのです。
永遠のいのちが与えられる
イエスは「わたしを信じる人には、永遠のいのちが与えられる」と教えました。そして十字架で亡くなったあと、三日目に復活し、人々の前に姿を見せたのです。みんなはとても驚きました。でも同時に「死んでも、永遠のいのちが与えられる」という希望を信じるようになりました。わたしたちもイエスを信じることで、いつか復活し、永遠のいのちが与えられることを神から約束されています。
イエス、復活する
十字架刑で息を引き取ったイエスの遺体は、支持者たちによって引き取られました。そして、当時のユダヤ人の習慣に従い、横穴式の洞窟のような墓に安置され、その入り口は大きな石でしっかりとふさがれました。
その2日後の朝、つまり十字架刑の日を1日目と数えて3日目のこと、イエスの女性の弟子たちが墓を訪れました。すると、墓の入り口をふさいでいた大きな石が動かされており、中にイエスの遺体はありませんでした。そのとき、女性たちは復活したイエスと出会いました。さらにイエスは、自分を見捨て、裏切った男性の弟子たちの前にも姿を現しました。イエスは彼らを責めることなく、むしろ受け入れ、励まし、自分の教えを世界中に広めるよう命じました。
新しい命
イエスは十字架刑にされる前から、「わたしを信じる人には、永遠のいのちが与えられる」と教えていました。しかし、復活したイエスに出会うまで、その教えを深く理解していなかった弟子たちは、イエスの復活を目の当たりにして、初めてこの教えの真の意味を知りました。それは、死が終わりではなく、その向こうに神が約束する新しい命が待っているということです。この確信を得た弟子たちは、復活の希望を携えてイエスの教えを世界中に広める活動を始めました。
死は、終わりではない
イエスを信じるということは、イエスの復活を信じ、永遠の命の約束を受け入れることです。イエスを信じたからといって、この地上での肉体の死を避けることはできません。しかし、地上の死はすべての終わりではないと知ることが、わたしたちに大きな希望を与えます。この希望は、人生のどんな困難や苦しみにも耐える力を与えてくれるのです。
ゆるしといつくしみこそ、最も大切
人生では、他人から裏切られたり、ひどい目にあったりすることがあります。そうしたとき、怒りや憎しみに支配され、悪に悪で報復したいと感じることもあるでしょう。しかし、イエスは十字架刑の極限の苦しみの中でも、人を責めたり憎んだりすることなく、むしろゆるしといつくしみを示しました。イエスは自分が教えた愛を自ら貫いたのです。そしてイエスの復活は、愛を貫くことは決して無駄ではなく、むしろ最も価値あることであるという証明なのです。
永遠の命、永遠の愛
死の向こうに永遠の命があると信じるとき、報復ではなく愛を選ぶことに価値があるとわかります。いつかわたしたちもイエスのように復活します。その時、わたしたちがイエスのように人をゆるし、大切にし、尊重し、思いやりのある行動を取ったということこそ、復活と永遠の命において神が最も尊いものとして認めてくださることなのです。
