マリアのとりなし

聖母マリアは、なぜ多くのクリスチャンにしたわれているのでしょう?それはマリアが「とりなし」をしてくれると信じられているからです。

祈りはいつでも、誰でも、どこでも

私たちはいつでも神に、そしてイエス・キリストに向かって直接祈ることができます。「神さま、ありがとう」「イエスよ、私のしたことをゆるして下さい」「聖霊よ、私を力づけて下さい」と祈ることができます。いつでも、どこでも、誰でもです。教会に行かなければこうした祈りができないということはありません。神父さんや牧師さんやクリスチャンにお願いしないと祈れないということもありません。あなたがクリスチャンでなくても、どうぞいつでもどこでも神に祈って下さい。自分の部屋でも、電車に乗っている最中でも祈ってかまいません。

祈れないときもある

けれども、たとえクリスチャンであっても、神に祈ることが難しい精神状態になってしまうことがあります。つらいことや悲しいことが多すぎて、神がとても遠い存在に感じてしまうと、神に直接祈ることができないと感じられることがあります。すぐ目の前にいる人には声をかけやすいけれども、何メートルか離れている人には声をかけるのがちょっとためらわれるというのに似ているかもしれません。

マリアは応援団長

天国でイエス・キリストのすぐそばにいるマリアは、そんな気持ちの人がいた場合、イエスと私たちの間で、私たちの思いを聴き、イエスに「あの人がこんな思いを抱えています、どうか聞き届けて下さい」と取り次いでくれると信じられています。これが「とりなし」です。とても心強いと思いませんか?マリアは、天国にいる私たちの「応援団長」なのです。

マリアは謙虚

マリアはあくまで応援団長です。自分が崇拝されたり、自分の偉大さを自慢したりしようとは少しも思いません。いつも私たちのために心を配り、「とりなし」をすることにすべてを注いでくださっています。だからこそマリアは今でも世界中の多くのクリスチャンから尊敬され、頼られています。

私たちは自分中心

現代社会の多くの人々は、意識的にも無意識的にも「自分中心の生き方」を当たり前のものとして受け入れています。自分の考えや行動の最終的な目的は「自分の利益を最大にすること」「自分の目標を成し遂げること」だと考えられているのです。たとえばボランティア活動のような他者のための行動でさえも、「他の人のため」というよりは、最終的に自分の実績に加えて、入学試験や入社試験の評価に役立てるために利用される場合があります。つまり「他人のため」だったはずの行動が、「自分のため」にすり替わってしまうのです。

権勢とは無縁の「神の母」マリア

しかしマリアはただひたすら、私たちのための「とりなし」に専念しておられると信じられています。ふつう権力者の家族は、その権力を利用してさらに力を持とうとします。歴史をひもとけば、皇帝や王の母が強大な権力をふるった例は数え切れません。しかし「神の母」と呼ばれるマリアはどうでしょう。彼女が選んだ最大の行動は「とりなしの祈り」でした。マリアは神に選ばれて、神の子イエスを産むという重要な働きをした人です。しかし、キリスト教会が成立したあと、マリアがその力を自分のために振るったというような記録はどこにもありません(弟子たちが勇猛果敢に布教し、会議などで意見をたたかわせた記録はありますが、マリアがそこで何かをしたという記録はまったくありません)。マリアはイエスの弟子たちに見守られて、静かにその生涯を終えたとされています。だからこそ、時代が下れば下るほど、クリスチャンたちから深い敬意を寄せられるようになったのです。

祈ってくれるマリア

聖母マリアはイエスを身ごもった際、天使から「恵まれた方」と呼ばれ、神から与えられるすべてを謙虚に受け入れた「神の母」です。彼女は祈ることを知り、誰よりも祈りを実践しました。マリアへとりなしの祈りをし、そのおかげを感じている人は、心からの感謝をもってそれに応えます。素直にマリアへ助けを求められる人には、素直な感謝が生まれます(もちろん神やイエスに直接助けを求め、そのおかげを感じている人にも、感謝が生まれます)。自分には天国に応援団長がいて、私のために全力で、できることをしてくださっているということを信じられるのは、とてもすばらしいことではないでしょうか?

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