父と、子と、聖霊

キリスト教では「神はただひとりだけ」と信じています。これはユダヤ教やイスラム教と同じ、一神教の伝統に基づく考え方です。しかし、キリスト教の神は「父と子と聖霊」として示されることがあります。これを「三位一体(さんみいったい)」と呼びます。

三位一体の教えは、理屈で完全に説明できるものではなく、信仰の奥深い神秘です。けれども、イエス・キリストを信じる人々がこの真理を確信するに至ったのには、確かな理由があります。

どうしてこういうことになっているのでしょうか?

目次

天地創造の神への信仰

唯一の神を信じる始まり

聖書によれば、唯一の神を信じた人で、その人となりが詳しく書かれている最初の人物はアブラハムといいます。実在が歴史資料から証明されているわけではありませんが、いたとすれば今からおよそ4000年前だろうと思われます。このアブラハムの子孫がイスラエル人(≒ユダヤ人)です。

イエスの登場

この唯一神信仰(=ユダヤ教)のグループから登場したのがイエス・キリストです。今から約2000年前のことです。イエスは、天地を創造した唯一の神を信じ、人々にも「神を第一にしなさい」と教えました。ユダヤ人として生きたイエスは、旧約聖書の神への信仰を大切にしていました。

神とイエス

一方でイエスは自分と神は非常に近いことを思わせるような態度もとることがありました。ユダヤ教では、人の罪をゆるす権威は神にしかないと考えられていましたが、イエスは人に向かって「あなたの罪はゆるされた」と宣言することが何度もありました。そのため、イエスは当時の宗教指導者たちに「神を冒涜する者」と危険視され、十字架につけられて処刑されました。イエスの死によって、彼の教えも終わったように見えました。

復活のイエスへの信仰

イエスの復活

ところが直後から、イエスの弟子たちは、イエスが復活したと言い始めます。彼らは、死んだはずのイエスがよみがえり、自分たちの前に現れたと証言しました。しかも、それまで臆病だった弟子たちは急に勇気を持ち、イエスの教えを伝えるために命がけで活動し始めたのです。師であるイエスがいないにもかかわらずです。さらに、このイエスの教えに反対していた保守的なユダヤ教徒の中にも、イエスの弟子たちの仲間に加わる者が出る始末です。その中には「復活したイエスに出会った」と主張する者までいました。

ユダヤ教とキリスト教

イエスの直弟子たちはもともとユダヤ教徒でした。ユダヤ教徒は天地創造の神しか崇拝しません。人間を神として拝むなど言語道断です。ユダヤ人の中には、当時の支配国家であるローマ帝国が政治的に強制していた皇帝崇拝(ローマ皇帝を神殿にまつり、神として崇拝すること)を拒否して殺される者もいました。ところがイエスの弟子たちは当然のように、復活したイエスを神と同じように礼拝対象にし始めました。ユダヤ人にはあり得ない行為です。しかも弟子たちは、自分たちがユダヤ教から分離した新宗教を作ったという自覚はまったくなく、あくまでユダヤ教の範囲内、つまりこれまでどおりの一神教を信じ続けているにすぎないと確信していたのです。

イエスは救い主?

弟子たちは、イエスは「救い主」であり、その死は人間の罪を身代わりに引き受ける行為であり、イエスの十字架のおかげで人間は罪をゆるされたのだと言いました。さらにイエスはこの世が終わる時にふたたびやってきて、最後の審判を行うと言います。これもユダヤ人には驚きの発言です。人間の罪をゆるしたり、審判したりできるのは神だけだと信じられていたからです。昨日までふつうのユダヤ人だった、イエスの弟子たちが急にこんなことを言い出すのはどうかしていると思われました。

聖霊への信仰

聖霊とキリスト教

さらにイエスの弟子の多くは、イエスの生前はそれほど活動的だったり物わかりがよかったりする人たちには見えなかったのですが、イエスの死後に突然雄弁になり、積極的に活動し始めました。本人たちが言うには、これは聖霊が自分たちの中で働くおかげだといいます。

イエスの弟子とユダヤ教の預言者の違い

神の霊が人に働くことがあるのはユダヤ教でも認められています。神がその魂に言葉を授け、神の命じたことを話したり行ったりする人は「預言者(よげんしゃ)」と呼ばれていました。しかしイエスの弟子たちは、自分たちに神やイエスのことを話させる聖霊とは神の霊でもあり、イエスの霊でもあると信じていました。この点がそれまでのユダヤ教の預言者と異なるところです。

弟子の体験としての三位一体

イエスの弟子たちは神・イエス・聖霊を区別しませんでした。本人たちは自分たちが体験していることが矛盾しているなどとは思っていないようでした。そして実際のところ、彼らが話すイエスの教えをとおして、多くの人が神を信じ、またイエスを救い主であると信じて、クリスチャンになっていきました。

いま感じる聖霊

クリスチャンになった者たちの中には、弟子たちのように自分自身が聖霊を感じる者が現れます。つまり神の存在を単に知的に理解するだけではなく、全身全霊で神を直観し、しかもそれまで感じたことのない内面的エネルギーを発揮して他者への援助や布教活動を行うようになるのです。

布教の原動力としての聖霊

キリスト教が広まる上で、この「聖霊の働き」による強い信仰心と情熱は不可欠でした。クリスチャンにとって聖霊を感じることは神を感じることであり、イエスがそばにいることです。これは特にもともとユダヤ教徒であり、生前のイエスを知り、聖霊を直接体験したイエスの弟子たちにとってまぎれもない実感でした。それがユダヤ教徒でもなく、生前のイエスに会ったことがない人々にも、聖霊を体験することをとおして共有されていったのです。

三位一体への疑問

これに対して、時間が経つにつれてキリスト教の中からも異議申し立てが出てきます。3つで1つというのは論理的におかしいというわけです。

人ではなかったイエス?

たとえば、イエス・キリストは神であると信じますが、神が人間の姿を仮に見せていただけで、イエスは本当の人間ではなかったという説が唱えられます(現代風に言えばバーチャル、あるいは3Dみたいなものというところでしょうか)。けれどもそうすると、イエスがマリアから生まれたとか、いちど完全に死んだということが説明できなくなります。さらに神はわたしたち人間をだましていたということにもなりかねません。わたしたちをだますようなことをする神は、信じるに値するでしょうか?

別の神々?

そこで、天地創造の神とイエスは別の神だという人も出てきます。たしかにそうすると話はすっきりします。けれどもこれでは神がたくさんいるということになります。それでも別にいいのかもしれませんが、イエスの弟子たちは、伝統的にユダヤ教で天地創造の神に対して使われていた敬称(「主(主人)」を意味するアドナイ)をそのままイエスに使っています。つまり両者は別々ではないと考えていたはずです。ですのでこの意見も、やがてすたれてしまいました。

お面をかぶった神?

あるいは、神はひとりなんだけれども、あるときは父なる神、あるときはイエス・キリスト、あるときは聖霊という「お面」をかぶって人々の前に現れるのだ、という解釈も提案されました。たいへんわかりやすい理屈です。ただ聖書を読むと、イエスは父なる神に向かって祈ったり語りかけたりしています。お面をかぶった一人の人が、別のお面をかぶった自分自身と話すというのはさすがに意味がとおりません。この解釈は理論的におかしいということで却下されました。

イエスは神の養子?

もう少し別の理解も現れます。イエスは神ではなく、神によって造られたものの一つにすぎないが、その中でも最高のもの(人間や天使よりも上)であり、神の養子だというものです。これもすっきりした説明に思えますが、やはりイエスの弟子たちの実感と重なりません。どうも違うのではということになりました。まったくすたれてしまったわけではありませんが、この考えは現在でも少数にとどまっています。

体験としての三位一体

神の働きを感じる

そういうわけで三位一体は結局のところ「論理的に説明できる概念」ではなく「神の働きを信じ、体験するもの」です。わたしたちは神のすべてを知ることはできませんが、神は確かに働いておられ、わたしたちはそれを感じることができます。

祈りと神秘の体験

ではどうやったらこの神の働きを信じ、体験することができるでしょうか?それは「祈り」によってです。キリスト教の祈りを実践することで、あるときは父なる神と話し、あるときはイエス・キリストを身近に感じ、あるときは聖霊が自分の中に働いているのを実感できます。そしてこの三つが別々のものではないということが受け入れられるようになります。ですから三位一体の神を信じ、感じることは、究極的には説明しきれない体験的な神秘であり、キリスト教信仰のもっとも奥深い部分なのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次